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−今、明かされる伝説の画家のすべて
2006(平成18)年は藤田嗣治の生誕120年にあたります。これを記念して、このたび、その全画業を紹介する展覧会をはじめて開催されています。
平安神宮の朱塗りの巨大鳥居と、展覧会の黄色の大看板が、雨の京都で対照的な美を発揮していました。
以下はホームページからの転載です。
藤田嗣治(レオナール・フジタ)は、東京美術学校を卒業後、フランスに渡り、モディリアニらとともにエコール・ド・パリの代表的画家として活躍しました。とりわけ、裸婦に代表される“乳白色の肌”の美しさは、多くの人々の心をとらえてきました。その後中南米を旅行して日本に帰国しますが、第二次大戦後はフランスに戻り、やがて帰化して、再び日本の土を踏むことはありませんでした。
これまで何度か開催されてきた藤田嗣治展は、その画業の全体像を示すには、必ずしも十分とはいえませんでした。また、その波乱に満ちた生涯ゆえに、数々の逸話による伝説としての藤田像が、画家としての評価をおいて、一人歩きしてしまった感もあります。
この展覧会は、パリ時代から晩年にいたるまでの代表作約100点を、フランスやベルギーを加えた国内外から集めて展示します。日本初公開作品約20点を含めた作品を通して、あくまで一人の芸術家としての藤田嗣治の全貌を探り、伝説ではない、あらたな藤田像を見出そうとするものです。
生誕120年 藤田嗣治展 〜パリを魅了した異邦人〜(京都展)
会期: 平成18年5月30日(火)〜7月23日(日)
会場: 京都国立近代美術館
長い間所在不明だった作品がフランスから出品。
《巴里城門》《窓》《黒人の女》など、日本時代の展覧会や、過去の図版などでその存在が確認されていたものの、長い間所在不明であった作品の存在が本展の調査で明らかになり、フランスから出品されます。さらに、同じく調査で明らかになった藤田のパリ渡航直後の模索時代に試みた「キュビスム風静物」は今まで公表されたことのない作品と思われます。
藤田の部屋の雰囲気を再構成。
フランスの富 1960-61年 パリ市立近代美術館
© photo PMVP/JOFFRE
同じく本展の調査で、子供による職人尽くし絵ともいうべき、タイル状の作品が複数発見されました。今も残る当時の写真からは、これらの絵が「フランスの富」(パリ市立近代美術館蔵)やポーラ美術館(ポーラ・コレクション)所蔵の作品とともに、藤田の部屋を飾っていたことが分かります。展覧会では、これらの絵にあわせて藤田手作りの小物などを展示して、画家の生活の一端がうかがえるようにします。身の回りのものひとつひとつに向けられた細かな感性に職人的ともいえるずば抜けた技量とそれに対する強いこだわりを感じ取ることができます。
展覧会内容
タピスリーの裸婦 1923年 京都国立近代美術館
藤田がフランスへと渡った1910-20年代、ピカソやモディリアニなど、多くの異邦人の芸術家たちがパリに集っていました。彼らはいつしか「エコール・ド・パリ(パリ派)」という名称で呼ばれるようになります。藤田はこの時期、これらエコール・ド・パリの画家たちと交流しながら、独自の画風を作り上げていきました。とりわけ藤田のトレードマークともなった、細く優美な線とやわらかな「乳白色の肌」を持つ裸婦像は高く評価され、藤田は一躍パリの寵児となります。
1930年代に入ると、藤田は、それまでの繊細な線描の作品から、より写実的な作品へと移行します。こうした傾向は、パリを離れ、中南米をまわって日本に帰国したあたりからより明らかになってきます。色彩は強くなり、また人やものの描写は重量感を増しました。こうした表現は、二科会での活動を経て、戦時中に描いた戦争画で頂点に達したように見えます。
戦後、藤田は戦争画を描いたことがもとで日本を離れ、ニューヨークを経て、再びパリへ戻りました。この時期の作品には、写実的な表現に、復活した藤田特有の線描の美しさが溶け合っているのが見られます。子どもたちを描いたユーモラスな作品や、カトリック改宗後に数多く描いた宗教画などに、藤田晩年の個性的な作風を見て取ることができます。
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=よ=ありがとさん。でかいなぁ〜朱塗りの鳥居(゚ロ゚)威風堂々とはこのことか!(あれ?建造物には使ったっけ?)
2006/6/9(金) 午後 11:34
=よ=さん。いつも訪問下さってありがとう。なぜか最近投稿も訪問も滞ってしまって/(+_+)脳シナプスの新しい発展連携が一段落すれば、ブログ再開出来ると思います。o(*^∇^*)o
2006/6/13(火) 午後 2:40