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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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アントナン・アルトー
Antonin Artaud
1896、マルセイユ - 1948、イヴリー

シュルレアリスムを突き抜けた、つかの間の閃光
シュルレアリスムの空間を流星のごとく通り過ぎたが、消すことのできない痕跡を残した。
ブルトンは彼に最上級の賛辞を呈した。
「この焼けただれた旗印をいつの世にも若者たちは自分たちのものとして認めることでしょう À jamais la jeunesse reconnaîtra pour sien cet oriflamme calciné 」

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苦痛と死(療養所に生活したこともある)との遭遇に特色づけられた幼少期と青年期を過ごしたのち、マルセイユを離れ、1920年、パリに「のぼる」(本文ではmonterと表記)。

詩人であり、デッサン画家であり、俳優であり、のちに演劇の理論家であり(しかし、このレッテルはもっとも不適切なものの一つであろう)、ただちに彼がどういう人物かを位置づけるのは難しい。

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■ 「ある怒りの状態 Un cetain état de fureur 」
シュルレアリスム運動への彼の参加は強烈ではあるが、短い。
たった2年間(1924-1926)と、1928年のつかの間の和解のみ。

1925年の数ヶ月間には、シュルレアリスム研究所 le Bureau de recherches surréalistes を指揮し、グループの推進者とさえ見なされていた。

1925年(アルトーがシュルレアリスム本部 la Centrale surréaliste の責任者であった時期)の共同宣言のこの抜粋はそれを示すものである。
5人の署名者 ― アルトー、ボワファール、レリス、マッソン、ナヴィル ― は、以下の点に同意していた。

 第一。超現実的な、あるいは革命的なあらゆる関心に先だって、何よりもまず自分たちの精神のなかで支配的なものは、ある怒りの状態であること。
 第二。自分たちは、この怒りの途上において初めて、超現実的なイリュミナシオンとでも呼びうるようなものに、最もよく達しうるであろうと考えたこと。
(……)
Artaud, Œuvres complètes, tome I, vol. 2, Gallimard 1976, p. 218

ミシェル・レリスによって提言されたこの表現「ある怒りの状態」は、即刻アルトーに取り入れられた。
すべてを(シュルレアリスムもそこに含まれる)「怒り」の下位に置くこの方法は、ブルトンを動揺させる類いのものであった。
それゆえただちにブルトンは主導権を取り戻した。

アルトーは、続けざまに『神経の秤 Le Pèse-nerfs 』『冥府の臍 L’Ombilic des limbes 』を出版したばかりであった。
運動の新しい政治的な方向にはすぐに不愉快にさせられ、加えて、ヴィトラックについての「アルフレッド・ジャリ劇場 Théâtre Alfred-Jarry」への演劇参加は批難される。

避けられない決裂は、1926年の終わり、すさまじい音を立てて生じ、1927年に辛辣な誹謗文書の交換を伴う(ブルトンは『真昼に Au grand jour 』、アルトーは『真夜中に、あるいはシュルレアリスムの虚勢 À la grande nuit ou le bluff surréaliste 』)。

「大いなる賭」のメンバーに非常に近いにもかかわらず、アルトーは以後いかなるグループを拒む。

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■ 孤立
彼の演劇の計画の失敗後(その総括は1938年、選集『演劇とその分身 Le Théâtre et son double 』にまとめられる)、当初は期待され(ガンスの『ナポレオン Napoléon 』、ドライエルの『裁かるゝジャンヌ Jeanne d’Arc 』)やがて失望される映画俳優業を放棄した後、彼はますます激しくそして自身に苦痛を与える軌道を追い求めるようになる。
メキシコ旅行(1936年)やアイルランド旅行(1937年)に代表される軌道は、ほぼ10年近い精神病院への収容に通じている。

■ 帰還
アルトーが1946年についにロデーズの精神病院から解放されたとき、ブルトンは(1936年ごろに両者は個人的な次元で和解していた)戻ったばかりを祝って催されたサラ・ベルナール劇場での講演において彼に公的かつ感動的なオマージュをささげる。
二人の男はアルトーに生あるのこり18カ月のあいだ、関係を保つであろう。

『ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者 Van Gogh le suicidé de la société 』(1947年)の作者は自身の著作の収集に取りかかるとともに、1925年に『シュルレアリスム革命』誌に寄稿したテキストのいくつか(「ローマ法王への上奏文 Adredde au Pape 」「ダライ・ラマへの上奏文 Adresse au Dalaï-Lama 」「ヨーロッパ諸大学総長への手紙 Lettre aux recteurs des universités européennes 」)の新版を執筆する。
彼の見解による、シュルレアリスム陣営への彼の短い参加の重要性と、運動との距離を表明する過去への帰還。

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■ 現れたり消えたりのパートナーか?あるいは偉大なる反体制者か?
1970年前後、モードの現象が「モモ Mômo 」の記憶をつかんだとき(『アルトー・ル・モモ Artaud le Mômo 』は、死の前年の1947年に出版されている)、彼は「近代演劇の父」として、また当時、好んで関連づけられたジョルジュ・バタイユ的なものにならって、シュルレアリスムの偉大な反体制者と称賛された。
もはや彼から離れないであろう暴力性のアルトーにおける到来は時に彼のシュルレアリスム時代にまでさかのぼった。
シュルレアリスム陣営への彼の参加がすでに彼に住みついていた暴力性に形式と正当性を与えたことだけは確かである。
ひとたびグループを離れたアルトーではあるが、彼が書き、運動に属した短い期間に彼が寄稿したテキストは否定しないであろう。
彼は20年後、かつてのシュルレアリスム的感化に立ち戻るであろう。
宗教、制度、家族、医学に対する彼の晩年のテキストは、1925年当時と同じく激しい攻撃ではあるが、精神病院の経験によっていっそう増した激怒を含む。
監禁生活は彼に医学に対する、家族の基本に対してでさえ新しい激怒を抱かせた。
たとえ暴力性が最後の著作で激昂していようとも、シュルレアリスト時代以来、それは対象も標的も変えはしなかった。

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Référence:
A. et O. Virmaux, Antonin Artaud, éd. La Manufacture, 1991.
放送禁止となったラジオドラマ『神の裁きと訣別するため』のCD付。


『シュルレアリスム資料 Archive du surréalisme 』の第4巻「性に関する探究 Recherche sur la sexualité 」(Gallimard 1990)の出版は、あまり知られていない、短いが人の心をとらえる、アルトーの発言(1928年3月)を明らかにした。
性を「それ自体として、きわめて忌まわしいもの」と告げたあと、ブルトン、プレヴェールほかを前にして、「下劣な誘惑の奴隷となるのは、ほとほとうんざりなんだ。しかしながら、たしかに、一種の死に身を投じるようにして性に身を投じるという場合もありうるだろう。でもそれは、絶望の一形式であって、そう感心できるものではない。」


『神の裁きと訣別するため Pour en finir avec le jugement de dieu 』。
1947年の終わり、ラジオ・フランスの責任者の一人であるフェルナン・プーエ Fernand Pouey がアルトーに依頼した放送番組のタイトル。
著者と俳優たち(マリア・カザーレス、ロジェ・ブラン、ポール・テヴナン)によって一度録音されたが、放送間近になって放送禁止とされた。激しい議論が出版界に巻き起こったが、放送不可は四半世紀も続いた。
最初の公的な放送は1973年3月5日である(France-Culture)。




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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