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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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ジャック・プレヴェール
Jacques Prévert
1900、ヌイイ - 1977、オモンヴィル

「心臓で赤くなる男 Celui qui rouge de cœur 」(ブルトン、エリュアール)
脚本家としての作品や『パロール Paroles 』の驚異的成功は、そのユーモアや不敬な態度の最良の部分を、若き日のシュルレアリスムの通過に負っている。

彼の生涯においてシュルレアリスムへの通過はたいへん本質的なものに思えるので、この所属の短さ、たったの3、4年(1925年あるいは1926年から1929年まで)には驚かされる。
また、この時期、彼自身の名前のみで、何一つ、実際には書かなかったことにも驚かされる。

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シュルレアリスム活動の主要な活動の拠点の一つとなったシャトー街54番地で、話し言葉によって重要な役割を演じ、グループの遠征、とりわけ映画館におけるそれには頻繁に参加した。

それでも彼は自動記述を拒絶し、組織への加入を嫌がる。
「共産党に入るのもけっこう」と、ある日彼はマルセル・デュアメルに打ち明けるだろう、そしてもの憂げに「だが独房〔党の細胞のこと〕に放り込まれてしまうさ」と。

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ブルトンとの激しい断絶は、さまざまな原因が積み重なって生じたもので、政治活動への無関心ばかりが原因ではない。
いずれにせよ、反ブルトンのパンフレット『屍骸 Un cadavre 』(1930年)への執筆が、彼の最初に出版されたテキストとなる。

■ 解放された「パロール」

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この「退場」〔原文では sortie と表記〕によってまるで彼の作家性が解放されたかのように、以後、すべては過ぎる。
「グループ十月 Groupe Octobre 」へのテキスト、数多い映画シナリオ、詩選集『パロール』(1945年)の輝かしい成功など、彼ののちの軌道はよく知られている。

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戦前にブルトンとは和解していたこと、彼によって書かれた映画のいくつか ―― 弟のピエールによって制作された『仕事は上々 L'Affaire est dans le sac 』(1932年)、カルネによって制作された『おかしなドラマ Drôle de drame 』(1937年) ―― が、明らかにシュルレアリスムの精神を継承していることは指摘されてよい。
また、映画から身を引いた晩年の数年をプレヴェールが意欲的に専念したものがコラージュであった。

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ジャック・プレヴェールは時にアナーキズムと揶揄された。
庶民的で、善良なアナーキズム。
彼が心底で受け取り、彼が自身の方法で再構築し、教義を離れ、ファンタジーの、容易さの、ときに絶対的自由の条件のなかで発展させていったシュルレアリスムの痕跡を、そこに付け加え得るかもしれない。

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彼の弟ピエール・プレヴェール Pierre Prévert は一度もグループに属したことはなかった。
シュルレアリスム精神の映画を数本制作したが、その中に、マルセル・デュアメル、マン・レイマックス・モリーズボワファールと制作した『美しきパリ Paris-la-Belle 』(1928-1958)がある。
またシュルレアリストたちの文書「闘争アピール Appel à la lutte 」(1934)に署名した程度である。




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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