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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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ヴィクトル・ブローネル
Victor Brauner
1903、ピヤトラ・ニャムツ(ルーマニア) - 1966、パリ

シュルレアリスム絵画の最重要人物のひとり
不服従ゆえに除名されるも、後年あざやかにグループに再加入したブローネルは、形態の驚異の発明者としてとどまるであろう。

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若年のころ(1920年頃)より画業をこころざし、故国ルーマニアのアヴァンギャルドに重要な役割を演じる。
1924年、詩人イラリエ・ヴォロンカ Ilarie Voronca と雑誌『75HP』を創刊、「ピクトポエジー picto-poésie 」なる宣言を投げかける(ブローネルは四半世紀後、この「ピクトポエジー」なる観念を再び取り上げるだろう)。

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さしあたり、ジョルジョ・デ・キリコの影響下、フランス滞在を利用してシュルレアリスムに接近する。
最終的に1932年にグループに加入、ブルトンはピエール画廊でブローネル初のパリでの個展を開催する(1934年)。

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摘出された眼球というテーマは彼の作品によく姿を現す。

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1938年、画家たちの激しい口論(ブローネルはそこに加わっていない)のさなかに片目を失ってしまうのは、予兆的であろう。

夢幻に特色づけられたこの時代の彼の作風は、「たそがれ crépuscules 」時代とも「キマイラ chimères 」時代ともよばれる(『賢者の石 La Pierre philosophale 』 1940年)。

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戦時、占領下、彼はフランスで過ごし、当初、監視下にあったが、彼の活動の領域を広げることになる。
彫刻に手を染め、オブジェを制作し、秘教主義に興味を抱くが、深いところでシュルレアリスムと密接に結びついている。

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■ 一時的な断層

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それでも決裂は生じる。
1948年、彼は「分派的活動」を理由にグループから除名される(しかし実際は、マッタの除名を認めなかったことによる)。
11年後の1959年、彼はマッタとともに、正式にグループに再加入する。

1966年に彼は没するが、奇しくもブルトンと同じ年であった。
またこの年、ヴェネツィア・ビエンナーレにフランス代表として選出され、一室すべてが彼に捧げられている。

1948年の決裂はかくして取り消されたが、決裂が当初引き起こした二次的な亀裂は消せなかった。
対立に際して、アレクサンドリアンジュフロワタルノーら若きグループのメンバーはブローネルと行動を共にし、シュルレアリスムから同時に除名されている。
後に彼らのいく人かがブルトンとの交流を再び始めるとしても、彼らはグループには再加入していない。


1924年にブカレストでブローネルと彼の友人イラリエ・ヴォロンカによって考案された「ピクトポエジー」は、それが何であるか見分けられるよう、二つの言語(詩と絵画)を統合するのを主眼としていた。
イメージのダイナミックな表現を際立たせる言葉が、デッサンや画布の表面に書き込まれている。
言葉の配置によってデッサンを形作ったアポリネールの『カリグラム』の次元に比べ、それ以上でもそれ以下でもないであろう。




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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