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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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ルイ・アラゴン
Louis Aragon
1897、パリ - 1983、パリ

シュルレアリスムの共同創設者からコミュニスムの詩人へ
35歳、ブルトンと軌道に乗せたところのシュルレアリスムに背を向ける。
彼の文学への貢献の最たるものはこの転向に先立つ時期にあったのではなかったか?

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1932年以降「変節漢 renégat 」のイメージを与えるも、シュルレアリスムの最重要人物のひとり。

彼のあいまいな出生が知られるようになるには時間を要した。
警視総監の私生児に生まれ、にもかかわらず、ブルジョア教育を受け、やがて戦争で中断されてしまうが医学を修める。

1917年、二十歳の時、ヴァル・ド・グラースの軍病院でブルトンに出会う。
二人ともそこのインターンであった。

ダダの冒険に精力的に参加する以前、共にロートレアモンを発見し、フィリップ・スーポーと親しくなり、1919年に雑誌『文学』を創刊する。
『アニセまたはパノラマ Anicet ou le panorama 』(1920年)、『リベルティナージュ Libertinage 』(1924年)、アラゴンが才気あふれる作家として認められる時期。
それは同時に、シュルレアリスムの確立やその初期の戦闘において、彼がブルトンの最良、最も近い共犯者であった時期でもある。

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『パリの農夫 Le Paysan de Paris 』(1926年)、『文体論 Traité du style 』(1928年)を刊行し、その輝かしい才能と侮蔑的性格を遺憾なく発揮するアラゴンであるが、友人のシュルレアリストたちの求めに応じ、ある小説原稿の大部を焼却している。
『無限の擁護 La Défense de l'infini 』、今はその断片のいくつかしか残っていない。
シュルレアリストたちがこの小説をブルジョア的で有罪とみなしたからであった。

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■ 決裂
この焚書を、アラゴンは心ならず同意したのではなかったか?
しだいに彼は自分をつなぎとめるものをはげしく求めるようになっていく。
数多のアバンチュール(とりわけ、富豪ナンシー・キュナード Nancy Cunard との不幸な関係)を経て、1928年、ロシアの詩人マヤコフスキー Maïakovski の義理の妹であるエルザ・トリオレ Elsa Triolet に出会う。
1930年以降の彼の共産主義への接近に、エルザのなにがしかの関与はあったであろう。

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1932年、彼の詩「赤色戦線 Front rouge 」が告訴され、「アラゴン事件」が発生すると、彼はブルトンやシュルレアリストたちの支持を拒絶し、公然とコミュニスト陣営へ組み込んでいく。
かつての同志は手厳しく彼を弾劾し、とりわけエリュアールのそれは激しいが、彼も数年後同じ道を歩むことになるであろう。

日刊紙『ス・スワール Ce soir 』の責任者、戦後は週刊紙『レ・レットル・フランセーズ Les Lettres française 』の編集者として、以後急速に、アラゴンは党の上層部のひとりとなる。

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詩人に返り(占領下の詩集『フランスの起床ラッパ La Diane française 』)、また自由に小説を書けるようになった(『バーゼルの鐘 Les Cloches de Bâle 』『お屋敷町 Les Beaux Quartiers 』『オーレリアン Aurélien 』『レ・コミュニスト Les Communistes 』)。
「社会主義リアリズム réalisme socialiste 」の確固たる信奉者、彼は忠実にスターリン主義のイデオロギーを伝えたが、後年にはいくばくかの留保と意識の隔たりをもった。

ブルトンと彼は1932年の決裂以後、一度も再会することはなかったが、たとえば映画『永遠に愛せよ Peter Ibbetson 』(1935年)に共通の感嘆をよこしたように、互いに意識し合う関係にあったということが、いくつかの出来事によって確認される。

1966年のブルトンの死後、アラゴンは『ナジャ』の著者のかつての同志たちの熱意を受け、『レ・レットル・フランセーズ』紙上で彼に賛辞を呈し得ると考えた。

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■ 消すことのできない過去
決裂以後のアラゴン作品は、非常に彼自身の青春期への愛着を残した。
彼はシュルレアリスムから離れたが、かつて彼がその理性で執筆した書籍は一度も否定することがなかった。

掲げられる著作(『アニセ』『自由精神』『パリの農夫』『文体論』)に、近代の「驚異なるもの merveilleux 」の驚くべき定義を含む、コラージュ作品解説『挑戦される絵画 La Peinture au défi 』(1930年)を加えよう。

彼がしばしばまず一人で作成したさまざまな共同宣言、そこでは彼の侮蔑の、挑発の才が光るが、これらを抜きに語ることはできない。
チャップリンの離婚訴訟騒ぎに際して起草された声明『ハンド・オフ・ラブ Hands off love 』(1927年)は、ブルトンによれば「ほぼすべて、アラゴンの手による」と、事後に判明した。
ブニュエルの映画『黄金時代 L'Âge d'or 』(1930年)に対する重要な声明の一部分もまた彼が起草した。
アラゴンはその名声の決定的要因を、おそらくその多様な彼のシュルレアリスム的テキストに負っているであろう。

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Références:
Y. Gindine, Aragon prosateur surréaliste, éd. Droz (Paris-Genève) 1966.
P. Daix, Aragon, une vie à changer, Seuil 1975.
André Gavillet, La Littérature au défi. Aragon surréaliste, éd. La Baconnière, Neuchâtel, 1957.

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1924年にアナトール・フランスの死に際して発行されたパンフレット『死骸 Un Cadavre 』のなかで、もっとも暴力的なテキストがアラゴンのそれである。
「諸君はもう死人をひっぱたいたか Avez-vous déja giflé un mort ? 」と題した一文で「今日、獏のモーラスと耄碌婆のモスクワとが一しょになって賞讃しているこの文士 le littérateur que saluent à la fois aujourd’hui le tapir Maurras et Moscou la gâteuse 」と、猛烈な非難を故人に浴びせた。
彼がのちにコミュニスムを賞讃するとき、容赦なく彼に想起したであろうフレーズである。


ジャン・シュステルとの共著で、アラゴンの死の年に出版された小冊子 Entre augures の中で、ミシェル・レリスはブルトンの側でのアラゴンの重要性を強調した。
「思い出せば、シュルレアリスムの創成期、アラゴンはブルトンの協働司教のようなものだった。ブルトンが何か意見を発するがそれがうまく機能しないようなとき、そこに適切な包装を用意したのがアラゴンだった。」(Terrain vague, 1990)




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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