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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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バンジャマン・ペレ
Benjamin Péret
1899、レーズ(フランス) - 1959、パリ

異常な激しさの論客
「もっとも親しく一番古くからの闘争仲間」(ブルトン)
« Mon plus cher et plus ancien compagnon de lutte » (Breton)

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全集も出版され、詩人として―― 『大いなる賭 Le Grand Jeu 』(1928年)、『とっておき De derrière les fagots 』(1934年)、『私は高める Je sublime 』(1936年)、物語作家として―― 『羊の股肉、その人生と作品 Le Gigot, sa vie, son œuvre 』(1957年)、その名を残すも、今もって世に埋もれた存在。

ブルトンと生涯親密な関係にあり、ジャック・バロンが「徹底的な非服従者 réfractaire total 」と表現したその個性を放棄せずとも、ブルトンと仲たがいすることのなかった唯一のシュルレアリスト、頑なに忠実な友の姿がとりわけ記憶に残る。

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1920年に復員後、『文学』誌のグループに戻り、ダダの冒険の最後に参加。
「バレス裁判 procès Barrès 」(1921年)では、無名のドイツ兵士の役を引き受けた。
「眠り」の実践に没頭する少数派であり、自動筆記に熱烈な信奉を示す。
ピエール・ナヴィルとともに『シュルレアリスム革命』誌の最初の編集人を務め、1927年、エリュアールアラゴン、ブルトン、ピエール・ユニックと共産党に入党し、その立場を小冊子『白昼に au grand jour 』で説明する。

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■ 背負ったリスク
しかしながら、ペレは急速にトロツキスムに接近する。

選択に由来して個人的にさまざまな政治参加を行う ―― 1931年ブラジルでの投獄と破壊活動による国外退去、トロツキストついで無政府主義者に加わってのスペイン内戦への参加、1940年の再投獄(軍隊内でトロツキスム細胞を組織したため)。

ドイツ軍侵入を機に脱獄、マルセイユでブルトンと合流し、1941年、画家で恋人のレメディオス・バロとともにメキシコに出発。
フランスに戻るのは、アラゴンらレジスタンスの詩人を批判し、多くの敵をもたらすことになる『詩人の不名誉 Le Déshonneur des poètes 』(1945年)出版後の1948年のことである。

彼の論戦的な文章の全容は、それをうまく要約したタイトルの『僕はそのパンを食べない Je ne mange pas de ce pain-là 』(1936年)に収められている(このタイトルは彼の墓石にも刻まれている)。

友情の枠外で、すぐれて妥協しない人物。彼の死後、強い要望に応じて「バンジャマン・ペレ友の会 Association des Amis de Benjamin Péret 」が設立されている。

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彼の著作のなかでも、『崇高なる愛の選集 Anthologie de l'amour sublime 』(1956年、Albin Michel)と『アメリカの神話・民話・伝説集 Anthologie des mythes, légendes et contes populaires d'Amérique 』(1960年、Albin Michel、遺稿)は、特別な位置を占めている。


『全集 Œuvres complètes 』は、1巻から3巻がEd. Losfeld、4巻から7巻がJosé Cortiから出版されている。




日本アートNipponArtでは、(ほぼ自分のための)シュルレアリスム理解のため、比較的平明な文章で書かれ、コンパクトな「シュルレアリスム人名事典」ともいうべき装いの Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.の翻訳を試みています。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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