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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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ロベール・デスノス
Robert Desnos
1900、パリ - 1945、テレジン(チェコスロヴァキア)

1922年ごろ、ブルトンの「シュルレアリスムの予言者」
自動記述と眠りに驚異的な才能を示すも、1930年にはブルトンと永遠の訣別をする。
以後は民衆詩、ラジオ、映画に身を捧げる。

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幼少の頃より、ことばの使用法と詩人の才に並はずれて恵まれた才人。
彼は大戦もダダも知らずに成長するが、当時まだダダを手放していない未来のシュルレアリストたちに1920年ごろに出会っている。
彼らはすでに固有の活動をしており、デスノスはただちにそこに参加する。

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■ 眠りの天才
『リテラチュール』誌に寄稿しながら、彼はルネ・クルヴェルによって提案された催眠実験にもっとも重要な役割を担うようになる。
その態度の唖然とさせるほどの自然さが「好きなようにシュルレアリスム語を話す parle surréaliste à volonté 」人物として彼を登場させる。
感嘆していたブルトンではあったが、「最悪の事態にいたるおそれがある frôle l'abîme 」と確信し、「眠り sommeils 」のこの実践に終止符を打つ決心をする。

この中断に不満なデスノスではあったが、それでもグループのきわめて活動的なメンバーであり続けた。
彼は自由への強固な愛着を裏付けるいくつかの選集を出版する。
言語的自由に『喪には喪を Deuil pour deuil 』(1924年)、性的自由に『自由か愛か! La liberté ou l'Amour 』(1927年)がある。

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ユキ Youki を生涯の伴侶とする以前、彼は歌手イヴォンヌ・ジョルジュ Yvonne Georges の顔立ちのもとに、愛する女性を理想化する。
また彼のリリシズムは、彼が魔法で変貌させる術を知っている庶民の、日常のパリに愛着する。

■ 取り返しのつかない決裂
1927年、当時グループ内ですすめられていた政治参加に逆らって、彼は映画への好みを露骨に見せる。
断絶は、ブルトンが彼をきびしく批判した『シュルレアリスム第二宣言 Second Manifeste du Surréalisme 』(1929年)の発表で成し遂げられる。
反撃に、デスノスはブルトンを攻撃するパンフレット『屍骸 Cadavre 』の主唱者となる。
また、引き続いて、ブルトンと決着をつけるため『シュルレアリスム第三宣言 Troisième manifeste du surréalisme 』を独自に発表する。
二人は決して和解することはなかった、そして後年ブルトンはそれをはげしく悔やむ心を表明するだろう。

1930年代のデスノスは、詩に、ジャーナリズムに、放送を開始したばかりのラジオに(『ファントマ哀歌 Complainte de Fantomas 』)、映画に、身をささげる。
映画ではいくつものシナリオを書いており、そのうち、マン・レイの『ひとで L'Étoile de mer 』(1929年)、ブリュニウスの『レコード番号37 Records 37 』(1937年)、ロラン・チュアルの『みなさん今晩は Bonsoir mesdames, bonsoir messieurs 』(1944年)がフィルムになっているが、その他は一度も制作されることはなかった。

華々しくグループを離れる以前にも、デスノスは映画について多く書いていた。
映画批評やコラムをいくつもの新聞に寄稿し(『パリ・ジュルナルParis-Journal 』『ジュルナル・リテレール Journal littéraire 』『ス・ソワール Ce Soir 』『ル・メルル Le Merle 』…)、紙上では『戦艦ポチョムキン Le Cuirassé Potemkine 』をマック・セネット〔「ドタバタ喜劇の父」として知られる、アメリカの映画プロデューサー、映画監督、脚本家、俳優〕と同様に語る。
彼が『ス・ソワール』紙で担当した欄は、ヴィクトル・ユーゴーの著作タイトルでもある『光と影 Les Rayons et les ombres 』を冠していた。

このタイトルのもと、1992年にガリマールから彼の映画に関する著述を再編集した本が出版されたが、記事、コラムのほかにここに収録されたシナリオや計画の大部分は明らかに生前、空振りに終わっている。
彼のシュルレアリスト時代からの映画に対する情熱を推し量るには、1927年4月『ス・ソワール』紙〔ママ、おそらく『パリ=ソワール』紙の間違い〕に掲載された以下の文章を読むので十分であろう。

「われらが映画に求めるものは、それは不可能さ、思いがけなさ、夢、驚き、リリシズム。魂の下劣さを消しもするし、熱狂者をバリケードや冒険の真っ只中に投げ込みもする。われらが映画に求めるものは、それはわれらを拒む愛と人生。それは神秘、それは奇跡」

ドイツ軍の占領下。デスノスはレジスタンスに加わる。
逮捕され、移送先のブーヘンヴァルト強制収容所において彼がストイックに振るまったということは、いく人かの生存者の証言するところである。
赤軍によって解放されるも、チェコスロヴァキアでチフスにより死亡。
ロベール・デスノス、いつまでも記憶に残る虐殺された詩人の一人である。

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プレヴェール以前に、デスノスは庶民のパリを、とりわけサン=マルタン界隈の貧しき人々のパリを歌にした。
彼は「ビールジョッキやコーヒー皿に囲まれて」執筆するのを好んだ。
『ス・ソワール』紙上では、「モム・ピアフ môme Piaf 」〔「小さなスズメ」の意、エディット・ピアフのこと〕と彼女のデビューを祝した。
彼はかなり多くのシャンソンの、ロマンスの、映画の「リリカルな lyrics 」テキストを書いた。シュルレアリスムの謹厳な歴史家たちはこの生産には見向きせず、うちの一人は「伝統的形式の、面白みのほとんどない詩」と書いた。

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ブルトンとの決裂以後も、生計のためのジャーナリスティックな活動においてさえ、彼は突飛なものや日常の詩に夢中であった。
マガジン『ヴュ Vu 』誌掲載の「至る所の思い出 Souvenirs de partout 」と題された記事(1933年9月6日)のごとくは、ミクロの視点でペン軸に献じられている。
デスノスはレイモン・ルーセルの先例を引き合いに出しながら、ルーセルが欲したように、「あまりに不当にけなされたこれらの詩的オブジェ ces poétiques objets, si injustement décriés 」をここで想起させている。




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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