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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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レーモン・クノー
Raymond Queneau
1903、ル・アーヴル – 1976、ヌイイ

母体としての、かつ標的としてのシュルレアリスム
未来の「コレージュ・ド・パタフィジック」の、「ウリポ」の創設者・推進者がきわめて活発なシュルレアリスムの戦闘期間にそのキャリアをスタートさせたと知るのは無意味ではあるまい。

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彼もまた、プレヴェール同様、わずか数年のみのシュルレアリストであった。
しかし、1924年から1929年のこの期間、彼のグループ活動への参加は激しく、かつコンスタントに続けられた。

ブルトンにはピエール・ナヴィルを介して知り合った。
当初、「シャトー街 rue de Château 」の連中(プレヴェール、デュアメルタンギー)の側にいたが、運動の最も行動的なメンバーのひとりであるところを急速に示す。
『シュルレアリスム革命』誌への頻繁な寄稿、アンケートへの協力、共同文書への署名、『大いなる賭』誌のグループを糾弾するに至る「シャトー街の集会」(1929年3月)では、アラゴン、ブルトンとともに会を集約した。

■ 訣別

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ジャニーヌ・カーン Janine Kahn との結婚により、ブルトンとは義理の兄弟となったクノーであるが〔ジャニーヌはブルトンの最初の妻シモーヌの妹であった〕、イデオロギー上の理由からではなく、「まったく個人的な strictement personnelles 」理由から(彼はいつもこう言うだろう)、クノーはブルトンと訣別する。

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いずれにせよ、種々の理由が彼を反ブルトンの暴力的なパンフレット『屍骸 Un cadavre 』(1930年)執筆陣に加わるよう駆り立てる。
後年、彼はモデル小説『オディール Odile 』(1937年)を出版するだろう。
そこではかつての同志(ブルトン同様、ペレ、ナヴィル、エリュアール…)が、手加減なしに扱われる。

クノーは、彼らに歩み寄るなどという企てはこれっぽっちもなさないであろう。
マルクス主義とシュルレアリスムの両立を企てるも、ブルトン陣営のみならず共産党からもただちに非難され、短命に終わった『革命的シュルレアリスム le Surréalisme révolutionnaire 』誌(1948年)の目次にせいぜい彼の名前を見つけるのみである。

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クノーはそれからガリマール社で小説の、出版の輝かしいキャリアを築く。

かつての友人たちと彼は、故意に、さいごまでたがいに知らないふりをするだろう。
たがいに知らずにいたことが、クノー作品(『地下鉄のザジ Zazie dans le métro 』(1959年)でさえも)が、初期のシュルレアリスムに負うところがあったやも知れないことごとを見えにくくしていると言えるだろう。

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最後に、「コレージュ・ド・パタフィジック Collège de Pataphysique 」(1948年)の、「ウリポ(潜在的文学工房) OULIPO (Ouvroir de littérature potentielle)」(1960年)の創設者の一人であったということ、そしてそのどちらもに彼が行き着けたのは、多数のかつてのシュルレアリストたちによることは、忘れてはならないだろう。



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グループとは和解することがなかったとはいえ、(少なくとも見かけは)彼はブルトンと親密にしている。
1960年の写真のように、心からの、好意を抱いた談話を楽しむ二人を撮らえたものもある。
〔注記――上の写真は1965年9月23日、映画館「ル・トリオンフ Le Triomphe」でのザ・ビートルズ主演映画の第2作目『4人はアイドル Help ! 』公開初日に撮られたもの.左からジャニーヌ、レーモン・クノーそしてアンドレ・ブルトン.〕





日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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