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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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イヴ・タンギー
Yves Tanguy
1900、パリ – 1955、コネティカット州ウッドベリー(アメリカ合州国)

不安を抱かせる想像界の画家
彼の初期の作品は、ますます超然とし、来るべき惨事におびえるかのような作品群の変遷と著しく対照をなす。

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船乗りの息子。
もしもふたつの出会いがなかったならば、彼もまた海にその生涯を捧げていたであろう。
ひとつめの出会いがジャック・プレヴェールとのそれであり(1920年)、ふたつめのそれは1923年にバス後部の立ち席から見つけたキリコの一枚の絵を発見したこと(ブルトンにとっても同じことが言える)である。
以来彼は絵画を志し、1925年にシュルレアリスムに組み込まれる「シャトー通り rue du Château 」のグループを、親友のプレヴェール、マルセル・デュアメルと形成する。

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その芸術において完全に独学の人であったタンギーは、すぐさまオートマティスムの原理に魅了されるが、その作風を「理論化する théoriser 」のはつねに拒絶するであろう。

彼の最初の個展が1927年にシュルレアリスム画廊で開かれる。
「緩慢な日 Jour de lenteur 」「平行線の出会い Rendez-vous des parallèles 」「過剰なリボン Le ruban des excès 」――、奇妙な題名を付され、月面にも似た荒涼たる風景ばかりを強迫観念のようにくり返し描くタンギーの作品は、彼の友人たちを戸惑わせるとともに、魅惑する。
1929年にデスノスは「大惨事の翌日の残酷で緻密な描写 Description cruelle et minutieuse des lendemains de catastrophe 」と書く。

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戦争まで、タンギーはシュルレアリスムの活動や出版に定期的に参加する。
1930年に彼が発見した北アフリカの光景は、のちのコネティカット州の広大な広がり同様、彼には啓示となる。

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■ ゆるやかな疎遠
1939年に兵役免除になり、彼はフランスを離れ、アメリカ合州国へ向かい、同じく画家であるケイ・セージ Kay Sage 1898-1963 と結婚する。
1948年には彼はアメリカ国籍さへ取得するであろう。
彼の作品はパリ以上にアメリカで成功を収める。

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彼とブルトンとの関係は戦中・戦後とまだ豊かなものであったが(タンギーは『VVV(トリプル・ヴェー)』誌に協力し、ブルトンは1946年に彼の作品に関するモノグラフィーを出している)、しだいに(壊れることなく)ゆるんでいく。

画家はますます悲劇的な、見捨てられた、苦悶を与える世界の彼のヴィジョンの中に深く入りこむ。
核戦争後の光景を語ったものであるとか、アルコールによる荒れた生活の反映とする批評・解釈は避けがたかった。

イヴ・タンギーの早すぎる死後、彼の妻ケイ・セージは自ら命を絶った。

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彼は冊子『ヴィオレット・ノジエール』などいくつものグループの作品に参加し、またなかでもブルトンの『黒いユーモア選集』に挿絵を入れている。

Références:
パトリック・ワルドベルグ『イヴ・タンギー』(ブリュッセル、1978年)




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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