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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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ジョアン・ミロ
Joan Miró
1893、バルセロナ – 1983、マジョルカ島パルマ

「シュルレアリスムがその帽子につけるもっとも美しい羽根飾り」(アンドレ・ブルトン)
« La plus belle plume au chapeau du surréalisme » (André Breton)
シュルレアリスムを行為に示したが、訣別なしに、固有の道を歩んでいった大巨匠。

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生まれ故郷のカタルーニャから1919年にパリに出て、すぐにその当初の写実主義を放棄し、ピカビアの影響で、まずダダの後塵を拝する。
しばらくの間、ブロメ通り〔十五区〕のグループに属し、アンドレ・マッソンの隣にアトリエを構え、二人して一心に絵画のオートマティスムの実験に打込む。
彼が誕生したばかりのシュルレアリスムに合流し、グループの最初の展覧会に参加するのは全く当然の成り行きであった。

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1927年、もう一方の中心グループ(アルプエリュアールエルンストマグリット)、モンマルトルのトゥールラック通り rue Tourlaque に移るが、絶えずシュルレアリストであった。
たとえば一枚の羽根、一本のヘアピン、一個のコルク栓のみからなるコラージュ作品『スペインの踊り子 Danseuse espagnole 』(1928年)のように、図の限界まで、ますます簡素化された彼固有のスタイルを、次第に確立していく。

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ときに抽象画に近いものと思われたシミの、線の、点の遊戯、この解釈をしかしミロは力一杯拒絶し続けた。
ブルトンは大いに彼の作品を称賛したが ―― とりわけ『星座 Constellations 』(1941年)、それでもある種当惑は隠せなかった。

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■ 段階的な隔たり
戦後、ミロは版画、彫刻、陶芸、装飾などあらゆる領域で自己を表現し、彼は世紀の巨匠のひとりと見なされた。
彼を紛れもないシュルレアリストとして、あるいは運動の一時的同志として見なす必要があろうか?

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グループの全メンバーが彼を称賛したが、1929年にすでにデスノスが「ミロの絵画はミロボラントである La peinture de Miró est Mirobolante 」と書いたように、彼はあらゆる流派から離れたところに自身を位置づけるかの次元を有していた。

そういうわけで、彼がベネチア・ビエンナーレで版画賞を受賞した後でさえ(この時同時にアルプは彫刻賞を、エルンストは絵画賞を受賞した)、グループは1954年に彼に対する除名通告を断念したのであろう。
しかし、エルンストのみ除名される。
ミロとアルプは実際20年以上も前からシュルレアリスムの闘士として働くことを止めていたから(だからといって否認されることもなかった)と推測されよう。
それはミロとアルプ、この二人の芸術家が取った距離の「事実上 de facto 」の承認であった。

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1920年代終わり、ミロは自身の創造的才能と格闘するかのごとく、簡素な作風に自分を服させることで、「絵画を抹殺する assassiner la peinture 」計画をしたが、続かなかった。
それは、彼が抽象画の方へと傾斜したと疑われた時期である。




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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