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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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マックス・エルンスト
Max Ernst
1891、ブリュール(ドイツ) - 1976、パリ

「幻想の画家 Le peintre des illusions 」(アラゴン『芸術論集 Écrits sur l'art 』)
エルンストは絵画の主要な役割をこのように定義した:
「驚異から断片を取り出し、現実の引き裂かれたドレスに復元する」(『百頭女 La Femme 100 têtes 』)
« arracher un lambeau au merveilleux et le restituer à la robe déchirée du Réel »

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本名マクシミリアン・エルンスト Maximilien Ernst (「マキシミリアン」とも表記)。
何よりも画家、しかし彫刻家、作家でもあった。
ドイツ陣営から第一次世界大戦を闘うが、後年、彼はアメリカ国籍を、ついでフランス国籍を取得するだろう。

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ともあれ、ケルンにいて、熱狂的にダダ運動に身を投じ、彼は自分をダダマックス・エルンストと呼ばせた。
早くも1916年から、彼はキュビスムの「パピエ・コレ papiers collés 」とは別の形態「コラージュ collage 」を考案する。
興味を抱いたブルトンは、エルンストにその新しい独創をパリで展示するよう促す。

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1922年にパリに移り住む。
とりわけエリュアールと親交を結ぶ(エルンストはエリュアールの妻・ガラの数多い恋人のひとりであった)。
すぐにシュルレアリスム・グループのもっとも活動的なメンバーのひとりとなる。

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■ 発明豊かな人
彼の発明は多様である ―― 「フロッタージュ frottage 」「グラッタージュ grattage 」「コラージュ小説 roman-collage 」:『百頭女 La Femme 100 têtes 』(1929年)『慈善週間または七大元素 Une semaine de bonté ou les sept éléments capitaux 』(1934年)。

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1939年には、オスカル・ドミンゲスによってはじめられた「デカルコマニー décalcomanie 」の手法を油彩にも適用する。
それは1937年に出会ったレオノーラ・カリントンと、サン・マルタン・ダルデーシュの家に隠棲する時期である。

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しかし、戦争によって、彼はしばらくドイツ市民ゆえに収容され、彼女とは離れ離れになる。
休戦により解放された彼は、1940年、マルセイユでブルトンと合流し、アメリカへ向けて出発する。
ニューヨークでは、ブルトン、デュシャンとともに、シュルレアリスムの雑誌『VVV(トリプル・ヴェー)』の推進者のひとりとなる。
彼はこの地で、以後人生を共にすることになる女性、ドロテア・タニングと出会い、彼女とアリゾナに移り住む。
彼の創造力は衰えなかった、しかし、彼の作品はアメリカでは深い反響を呼び起せない。

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映画では、同国人ハンス・リヒター Hans Richter 1888-1976 の作品にのみシナリオ協力している ―― 『金で買える夢 Dreams that money can buy 』(1946年)、『8×8 8×8』(1957年)。
これらの映画では、以前、ブニュエルの映画『黄金時代』の時と同様、短いながらも鮮明なシルエットを残す、出演者としての彼を見ることができる。

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1953年、彼はパリに戻ることを決意する。
ほどなく(1954年)、ヴェネツィア・ビエンナーレの絵画大賞が彼に授けられる。
この受賞への同意が、ブルトンの最初の助言に反して、シュルレアリスム・グループからの除名という結果をもたらす。
この最後の予期せぬ出来事は、以後マックス・エルンストが獲得する名声にあまり影響しないであろうし、彼がシュルレアリスムに貢献した重要性をいかなる点においても弱めはしない。

ブルトン、エリュアール、デスノスペレらが描きこまれた彼の絵画『友人たちのつどうところ Au Rendez-vous des amis 』(1922年)が証明するように、彼とグループとのつながりは、すぐに緊密なものとなった。

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彼のオリジナリティーというものは、おそらく、ドイツ・オニリスムの偉大なる伝統をシュルレアリスムに翻案したことであろう。

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彼の作品には多く、モンスターや不安がらせるような形象に満ちている。
不安はそこでは黒いユーモアとまざり合う。
『百頭女』には虐殺される子供たちが繰り返し描かれる。
もっとも注釈されたタブローのひとつは『2人の子が1羽のナイチンゲールに脅かされる Deux enfants menacés par un rossignol 』(1924年)のタイトルを持つ。

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この世界に現れる多くの鳥は、「鳥類の長 le supérieur des oiseaux 」、すなわち怪鳥ロプロプ Loplop の姿に要約される。
鳥たちはある種ダイナミズムとも言うべきものを、凝固した、化石化した宇宙の内部へと導き、晩年の彫刻の巨大なコンポジションへと通じてゆく。

■ ジミー・エルンスト Jimmy Ernst
マックス・エルンストの息子ジミー・エルンスト Jimmy Ernst 1920-1984 もまた画家であったが、その作品においては父のそれとは大きく異なる。
1932年よりアメリカに暮らし、1940年にはニューヨークでマックスやほかのヨーロッパからの亡命者たちと合流し、シュルレアリスムの雑誌『VVV(トリプル・ヴェー)』で彼らに協力する。
早くから抽象(アブストラクション)の立場をとった彼の作品は、マッタのそれに近いものと批評された。


ペーター・シャモニ Peter Schamoni が近年制作したドイツの長篇ドキュメンタリー Max Ernst : Mes vagabondages, mes inquiétudes [マックス・エルンスト、わが放浪、わが不安](1991年)は、画家の歩んだ道をたどる。
そこでは例えば、映画『黄金時代』(ブニュエル)でのエルンストの出演場面、彼がレヴィタン Lévitan の家具をほめそやすフィルムCM(ジャン・オーランシュ Jean Aurenche 1903-1992 、ポール・グリモー Paul Grimault 1905-1994 あるいはブリュニウスが制作)なども見ることができる。

Références:
・Werner Spies, Max Ernst : Les Collages, inventaire et contradictions, Gallimard 1984. (ヴェルナー・シュピース、マックス・エルンスト[コラージュ、その目録と相違点])
・Catalogue de l'exposition Max Ernst, du Musée Nat. d'Art mod. ( Centre G. Pompidou ) 1991. (1991年にパリのポンピドゥー・センターで開催された大回顧展のカタログ)
・Max Ernst, Écritures, Gallimard 1970. (マックス・エルンスト『著作集』、ガリマール社、1970年)


1954年の除名は、マックス・エルンストにいささか苦い思いを抱かせたであろう。
エリュアールとの連帯から、彼は1938年以来、自発的にグループと絶縁したと主張し、どうにか貧困から抜け出せた人びとにいつも反対するところを見せると言って、ブルトンを責めていた。
いずれにせよ、運動への帰属には、いかなる文学賞、芸術賞も受け入れない、求めない、という約束が絶えず含まれていた。

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日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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