ここから本文です
フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

書庫全体表示

アンドレ・ブルトン
André Breton
1896、タンシュブレー - 1966、パリ

望まれざる巨人の家系より
歴史的シュルレアリスムは彼によってしか存在しなかったであろう。
半世紀近くにわたる企ては、彼の超人的牽引力によってしか生じなかったであろう。

(前編)

イメージ 1

大多数の目には「法王 Pape 」、ある人たちにとっては「アンチ・ペール(反=父) antipère 」、ブルトンはあらゆるレッテルを全力で拒絶した。

彼が受け入れた唯一の言葉、彼が認めた唯一の自身の役割、それは「指導者 entraîneur 」のそれである。
散文作家、詩人、理論家とも定義し得るかも知れないが、何よりもまず推進者として、統合者として定義し得るであろう。

イメージ 2

彼は自身の周辺に、絶大な、ときに高圧的な権力を行使した。
彼の敵たちが「憲兵の息子 fils de gendarme 」と陰険に強調するほどまでに。
さまつな事実ではあるが、実際、アンドレの父はしばらく憲兵隊の「会計係 employé aux écritures 」を務めていた、その後民間部門へと移り、パリ近郊の小企業の「管理職 cadre 」という控え目な職業に就いた。

ひとり息子の教育は当時の下層中産ないしは上層中産ブルジョワ階級の規準に則って執り行われる。
修道女の経営する幼稚園、ついでコレージュ・シャプタル。
しかし、思春期はポエジーにしかほとんど興味を示さず、マラルメ風の最初の詩を書く。

体面を重んじる両親からのプレッシャーを受け(とりわけ彼の母、彼女とはますます不仲になるであろう)、医学の勉強に気の進まないまま取りかかる。

まもなく戦争がすべてを一掃しにやって来るであろう。

■ 三銃士
1915年、看護兵として招集される。

イメージ 3

たび重なる出会い。
アポリネールは彼にフィリップ・スーポーを紹介する。
ナントの病院で出会ったジャック・ヴァシェは、その磊落さで彼を魅了し、(アルフレッド・ジャリをのぞいて)彼の頭を白紙状態にしてしまう。
アラゴンロートレアモンと『マルドロールの歌』を発見させる。

戦争が終わり、アポリネールの(1918年11月)、とりわけヴァシェ(1919年1月)の、ほぼ時を同じくする突然の死が、彼に深い衝撃をもたらす。
厳密な意味でのシュルレアリスムが誕生するのは今しばらく待たねばなるまい、しかし啓示はすでにある。
あらゆる要素がそろっている。

1919年春、2週間でブルトンとスーポーが共同に作成を試みるテキスト、自動記述による最初の試み『磁場』から冒険ははじまる。
その断片は、アラゴン、ブルトン、スーポーが創刊したばかりの雑誌『リテラチュール(文学)』に掲載される。

開幕メンバーはまもなく増えていくだろう。
新たな絆がポール・エリュアール、とりわけダダの創始者、トリスタン・ツァラとともに形成される。

イメージ 4

■ ダダの季節

イメージ 5

イメージ 6

1920年以降、ブルトンとその友人たちはダダ的行為に、とかく挑発的な行為(1921年の「バレス裁判」)に熱狂する。

イメージ 7

ブルトンには、彼の「常軌を逸した行動 extravagences 」を非難した両親とのあいだに不仲が生じる。
しかしブルトンは比較的早い段階でダダの冒険を袋小路と認識し、それを放棄するよう友人たちを説得する(「すべてを手放せ Lâchez tout 」、1922年)。

いわゆる「眠り」の実験(催眠状態で吐きだされる言葉、ルネ・クルヴェル、とりわけロベール・デスノスがこの方面で抜きんでる)が、ブルトンに新たな運動の創始へと決定的にかり立て、1924年、『シュルレアリスム宣言』を発表する。

イメージ 8

彼の周囲にグループは組織され、彼はその特権的な鼓吹者となる。

このグループの生命は、すぐに激しく動揺させられる。
まず、死去したばかりのアナトール・フランスに対して出されたけた外れに狂暴な共同執筆のパンフレット『屍骸』(1924年)。
ブルトンは「埋葬拒否 Refus d'inhumer 」という一文をこのパンフレットに寄せている。
並はずれのスキャンダル、シュルレアリストたちはあらゆる方面からの攻撃を受けるも、見事に打ち返す。
『ポール・クローデルへの公開書簡 Lettre ouverte à M. Paul Claudel 』〔彼はシュルレアリスムの活動を男色家的だと形容した〕と詩人サン=ポール・ルーの祝賀会の開かれたラ・クローズリ・デ・リラでの大騒動(1925年)。

この激しい闘争的ムードはやがてグループ内部に反響し、早くも1926年には、ヴィトラック、スーポー、アルトーが除名される。
ある者は復帰し、アルトーやヴィトラックのようにときには再除名されたりと、ある種の往復運動のように、こういったやり口は運動の生涯にわたって繰り返されるであろう。

イメージ 9

シュルレアリストたち
1924年12月、グルネル通り15番地、シュルレアリスム研究所にて(撮影:マン・レイ

後列左より シャルル・バロン、レーモン・クノーピエール・ナヴィル、アンドレ・ブルトン、J-A・ボワファールジョルジオ・デ・キリコ、ロジェ・ヴィトラック、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポー、ロベール・デスノス、ルイ・アラゴン
前列左より シモーヌ・ブルトンマックス・モリーズ、ミック・スーポー



イメージ 10

彼の友人たちや彼は、執拗に彼にかぶされようとした「法王 pape 」という称号を絶えず拒絶した。
彼としては、「かれの最大の願望は、世の最ものぞましからぬものの一員でありたいということだった son plus grand désir eût été d'appartenir à la famille des grands indésirables 」と表現した〔「自分自身についての著者の判断」『シュルレアリスム簡約辞典』〕。




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
日本アートNipponArt
http://nipponart.jp/

この記事に

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事