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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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ジョルジュ・バタイユ
Georges Bataille
1897、ビヨン(ピュイ=ド=ドーム県) - 1962、パリ

ブルトンとの複雑に交叉する関係
グループよりもブルトンと結びつき、彼に対しては魅せられたり、反発したりの態度を展開したが、のちに宥和する。

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「私は自分の努力を、シュルレアリスムのすぐあとに、その傍らに位置づける」
« Je situe mes efforts à la suite, à côté du surréalisme » ( L'Expérience intérieure )

ときに彼を「パラ=シュルレアリスト para-surréaliste 」と定義させたこのような告白にもかかわらず、バタイユは相当に運動には無縁であった。
例えば自動記述など、その主要な方向性には賛同しなかった。

決して加入することのなかったグループとは鋸の歯のようなぎざぎざした関係を引き起こしただけに、無関係ではあっても、関与はあった。

一度だけ匿名で(バタイユ本人であるのは確かである)『シュルレアリスム革命』誌第6号に「ファトラジー Fatrasies 」〔13世紀に流行した奇妙なナンセンス詩の現代語訳〕を寄稿した。

しかしブルトンとの関係は、長らく不和状態にあった。

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雑誌『ドキュマン』(1929年−1931年)でシュルレアリスムを除名された者たちと離反した者たちに思考の場を提供し、ブルトンは『シュルレアリスム第二宣言』(1929年12月)でバタイユを荒々しく攻撃する。

バタイユはその仕返しに、劣らず乱暴に、反ブルトンの誹謗文書『屍骸』(1930年1月)に共同署名する。

■ 困難な関係
つかの間の接近が数年後に生じる。
「コントル=アタック Contre-attaque 」(1935年−1936年)。
深刻かつ脅威的な当時の政治的文脈の求めに応じた提携であったが、根強い対立は長くは隠せなかった。

ブルトンとバタイユの関係に、互いに評価、尊敬しあう和らいだ対話が築かれるのは、戦後になってからのことである。
シュルレアリスムの問題への頻繁な回帰によって打ち立てられていったバタイユの『全集』が証明するように、各々の非妥協的態度が互いに魅了しあう仲を現している(とりわけ『全集』の7巻と8巻を参照)。

画家アンドレ・マッソンは1925年のシュルレアリスムを前にしたバタイユの態度を「境界 mitoyen 」、「非従属的 Non inféodé 」と明晰に定義した。

バタイユの非常に近いところにいたミシェル・レリスは、バタイユがときにシュルレアリスムと点のような結びつき、深いつながりの存在を ―― 不当に ―― 信じ込ませた関係を結んだとしても、バタイユはシュルレアリスムとは無縁の存在であったとよりきっぱりと指摘した。

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映画『アンダルシアの犬』の重要性を誰よりも主張したのがバタイユであった。
とりわけ片目の切断されるシーンが彼を魅了した。
このシーンのアイデアがダリによるものと最初に指摘したのが彼だったとされる(ブニュエルの証言)。




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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