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もはや自らを軽蔑することができないような、もっとも軽蔑すべき人間の時代が来るだろう。

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ダダ DADA

ダダ
DADA

(前編)

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ダダとシュルレアリスム、2つの運動には同じ人物が見出されることから、それらがある同じ思考の流れからの連続する2つの様相であったという見方が多くなされた。
しかしこの分析はきわめて早い時期に反論がなされ、数多くの論争がなされた。

論争には立ち入らず、アンドレ・ブルトンの言葉を引用しよう。
ブルトンによれば、2つの運動は「相関的にしか、ちょうど、交互に相手を覆い隠そうとするふたつの波のようなものとしてしか、理解することができないのです」(『ブルトン、シュルレアリスムを語る』)。
« ne peuvent se concevoir que corrélativement, à la façon de deux vagues dont tour à tour chacune va recouvrir l'autre. »

ふたつの波、いずれにせよその出発点において、その違いははっきりしている。
シュルレアリスムは当初、パリ的であったろう、一方でダダはまたたく間に国際的様相を呈す。

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ダダは1916年のチューリッヒ、あらゆる国籍の芸術家たちの集う文芸カフェ「キャバレー・ヴォルテール」で誕生する。
そのなかに、トリスタン・ツァラ(ルーマニア)、フーゴ・バル(ドイツ)、ハンス・アルプ(フランス=ドイツ)らがいる。

伝説では ― 大論争を巻きおこしたが ― 、「ダダ」という言葉は偶然ひらいた辞書のページからとられたことになっている。

確かなことは、ダダが1914年−1918年の戦争〔第一次世界大戦〕から、つまり、当時ヨーロッパを血まみれにした殺戮のはげしい拒絶から生じたということだ。
耐えがたい現実との、戦争を正当化しようとするイデオロギーとの、絶対的断絶の意志があった。

ゆえに、ダダの世代には一種のニヒリズムがあった。
すべてが否定された、すべてが笑いの種になった。

(まだかなりの規律を主張していた)アナーキズムよりもより遠くに行くことが重要である。
ツァラは書く。
「おれは頭脳の引き出しと社会組織の引き出しを破壊する」(「ダダ宣言1918」)。
« Je détruis les tiroirs du cerveau et ceux de l'organisation sociale. »

ツァラはしだいに体制・秩序の破壊を企てる推進者として世に現れる。
彼の「ダダ宣言1918」は運動の主要テキストのひとつである。

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ツァラは当時、1913年の「アーモリー・ショー」の展示によってスキャンダルを巻きおこしていたマルセル・デュシャンと、フランシス・ピカビアに接近する、そして彼らは彼をパリに来るように促す。
彼はすぐに雑誌『文学』のグループ(アラゴン、ブルトン、スーポー)と接触する。

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これら新参者たちの刺激を受けて、ダダイスムは1920年から1922年の間、新たな飛躍をとげることになるが、それは同時に白鳥の歌〔芸術家の最後の傑作、絶筆.瀕死の白鳥は美しい鳴き声を聞かせるという伝説から〕でもあったろう。

3年間、それはあらゆる種類のビラの、マニフェストの、挑発行為の絶え間ない連続である。

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信奉者は数多い(リブモン=デセーニュ、クルヴェル、ヴィトラック、ペレ、アルラン、リゴー、マン・レイ)。
そしてその大部分はほどなくシュルレアリスムの隊列の中に見出されるであろう。

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ダダはあらゆる分野で表現される。
音楽(サティ)、映画(マン・レイとデュシャン)、演劇(リブモン=デセーニュ、ツァラ、ブルトンとスーポー)、さまざまな展覧会(ザッキン、アルプ、メッツァンジェ)。

ダダのウィルスはヨーロッパ全土に触れた。

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日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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