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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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『大いなる賭』誌
LE GRAND JEU

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文学史の教科書では、<大いなる賭>は、シュルレアリスムの下位グループとして紹介されるのがつねである。
接近の企てはしばしばあったにもかかわらず、2つの運動の関係が多く対立的であったために、これは正当な評価とは言えない。

彼らの間には、世代は別にしても、少なくとも年齢に違いがあった。
ブルトンとその友人たちは、新参者たちよりも、およそ10歳ばかり年長であった。

グループは当初(1922年)、一握りのランスの高校生であった ―― ロジェ・ジルベール=ルコント、ルネ・ドーマル、ロジェ・ヴァイヤン、ロベール・メイラ(Robert Meyrat 1907-1997) ―― 。

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サンプリスト兄弟
左から、メイラ、ルコント、ヴァイヤン、ドーマル

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ロジェ・ジルベール=ルコント(Roger Gilbert-Lecomte 1907-1943)

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ルネ・ド−マル(René Daumal 1908-1944)

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ロジェ・ヴァイヤン(Roger Vailland 1907-1965)

彼らは参入儀礼的な小さな共同体、「サンプリスト兄弟 Phrères simplistes 」を結成する。
幼年時代の素朴さや、その直感的かつ率直な認識の可能性を再発見しようという彼らの意志を表したネーミングであった。

彼らの形而上学的な欲求が、超感覚的な探究に、自己分裂の実験に、生と死のはざまでの実験に、専心するようかり立てていた。

1925年以降、グループは(メイラはグループから離脱した)パリにやって来て、新メンバーも加わり、豊かなものとなる。
画家ジョゼフ・シマ、ピエール・ミネ(Pierre Minet 1909-1975)、アルチュール・アルフォ(Artür Harfaux 1906-1995)、モーリス・アンリ、ヘンドリック・クラマー(Hendrik Cramer 1884-1944 、収容所にて死亡)、アンドレ・ロラン・ド・ルネヴィル(André Rolland de Renéville 1903-1962)、モニ・ド・ブリ(Monny de Boully 1904-1968 、かつてのシュルレアリスト)、ピエール・オダール(Pierre Audard 1909-1981)、アンドレ・ドゥロン(31才の若さでダンケルクの戦いで死亡)、ズデンコ・ライヒ(Zdenko Reich 、大戦間は故国ユーゴスラヴィアに戻るであろう)、そして短期間であったが、ロジェ・カイヨワ

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ジョゼフ・シマ(Josef Sima 1891-1971)

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モーリス・アンリ(Maurice Henry 1907-1984)

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アンドレ・ドゥロン(André Delons 1909-1940)

1928年、雑誌『大いなる賭』は創刊される(誌名はロジェ・ヴァイヤンによって提案された)。
雑誌は1930年までにわずか3号が発行されるのみであるが、雑誌名が同じ1928年に刊行されたバンジャマン・ペレの詩集と同じタイトルをはからずも冠していたために、早くもシュルレアリストたちと最初の衝突を招くことになる。

事態は鎮静し、両グループの間に警戒し合うかの協力関係がほの見えるが、長くは続かない。

1929年3月、ブルトンの扇動によって集められた会は、騒然としたものになる。
集会では、<大いなる賭>のグループの予審訊問がなされ、とりわけ、シュルレアリストたちが目の仇にしていた当時の警視総監シアップ Chiappe をたたえる記事を大衆誌『パリ・ミディ』に書いたロジェ・ヴァイヤンが糾弾された。
ヴァイヤンはほどなく友人たちから離れていく。

グループは当時、個々に引き抜きの対象となっていた。
例えばドーマル、彼が『シュルレアリスム第二宣言』の中で、ブルトンとその仲間たちに合流するように誘われているのは明白である。
ドーマルの回答は、「シュルレアリスムと大いなる賭の関係について」のアンドレ・ブルトンへの公開書簡のかたちをとって、最終号でもある『大いなる賭』誌第三号に掲載された(1930年)。

「アンドレ・ブルトンよ、いつか文学史の教科書に載らぬよう気をつけるがいい。それにひきかえ、わたしたちがなにか栄光を望むとしても、それは後世の災厄の歴史に記録される栄光ということになるだろう」
« Prenez garde, André Breton, de figurer plus tard dans les manuels d’histoire littéraire alors que si nous briguions quelque honneur, ce serait d’être inscrits pour la postérité dans l’histoire des cataclysme »

有名なこの一文を含むドーマルの回答は、皮肉をたっぷりこめての、明らかな拒絶である。

実際、<大いなる賭>は長くは続かなかった。
1932年にグループは解体し、二人の主要推進者、ドーマルとジルベール=ルコントは1934年に決定的に別れる。
ドーマルはグルジエフ〔20世紀最大とも見なされることのある神秘思想家〕の方に身を投じ、ジルベール=ルコントはますます麻薬にのめり込んでいく。
どちらも数年後には(まるで申しあわせたように)36歳の若さで、6ヵ月の差で、世を去ってしまう。

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ゲオルギイ・グルジエフ(Georges Gurdjieff 1887-1949)

まるで吸収を目的とした、<大いなる賭>のグループの「不安定化 déstabilisation 」というブルトンの企てがのちに有効と見なされるかのように、グループの生き残りたちのいく人(アルフォ、アンリ、ライヒ、カイヨワ)は、長期的あるいは短期的にシュルレアリスムの隊列に合流する。

しかしながら、さらにその後に、ブルトンはロジェ・ジルベール=ルコントの思い出に、熱烈なオマージュをささげたことは注記しておこう。

大論争にまでなり、1969年に決着を見たジルベール=ルコントの書簡集出版をめぐる裁判は、<大いなる賭>のグループの宿命的な不運の威光を増し、また、その絶対的な飢餓感の永続性を目立たせるのに貢献したと言えよう。

Référence:
A. et O. Virmaux, R. Gilbert-Lecomte et le Grand Jeu, Belfond 1981.




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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