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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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ジャック・ヴァシェ
Jacques Vaché
1895、ロリアン – 1919、ナント

「最高度の≪離脱≫能力」(『ブルトン、シュルレアリスムを語る』)
« La plus haute puissance de dégagement »
「ユーモア Umour 」(hなし)の考案者、「ポエート pohètes 」(ここにはアポリネールが含まれる)の大中傷屋。
ブルトンに対して絶大な威光をまとったが、23才での突然の死にもかかわらず、その威光はますます強められた。
* 「詩人」は poète であるが、この「ポエート」 pohète の綴りは h が余計である。ジャック・ヴァシェはブルトンの芸術家意識をからかってこんな呼名を与えていた。前出の h のない「ユムール」と対応している。

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その著作はほとんど残さなかったが、それでもシュルレアリスムの「家系 dynastie 」の重要人物のひとり。
運動における彼の重要性は、まったくブルトンに依拠している。

彼らが出会う以前、ヴァシェはナントで反体制派の高校生の小グループに属してはいたが、そのリーダーではなかった。

1915年に負傷し、ナントの軍病院へと運ばれ、ここで手当てを受ける。

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1916年、ここで当時軍医補のブルトンと出会う。

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わずかの年のちがい(ブルトンはヴァシェより1歳年少であった)にもかかわらず、ブルトンは彼の荒廃的なダンディズムにすっかり魅了されてしまう。

1918年11月、第1次世界大戦休戦の数週間後、ヴァシェは阿片の大量摂取が原因で死亡する。

即座に自殺と感じたブルトンは(注記――ブルトンはヴァシェの死の直後から、それが自殺であると断定していたわけではない。この経緯は、鈴木雅雄「ジャック・ヴァシェ幽霊になる」、『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』平凡社、2007年、に詳しい)、ヴァシェが彼に宛てた(同様にフランケル宛、アラゴン宛)ひと握りの『戦時の手紙』を1920年に出版した。

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■ ほぼ神話的人物
その生涯の最期まで、ブルトンはその出会いをきわめて重要なものと見なし続け、またヴァシェを、ロートレアモンランボーあるいはジャリ(ヴァシェが唯一評価したのがジャリであった)と同等に、運動創設の英雄と称するべく努めた。

グループの全メンバーが『戦時の手紙』の断章を諳んじられた。

近年、ナント時代の雑誌群が世に出たが ―― Michel Carassou, Jacques Vaché et le groupe de Nantes, Jean-Michel Place, 1986. ―― その青年期を特徴づけたこの皮肉なダンディをめぐってブルトンが打ち立てた神話は、いささかも揺るがされることはなかった。

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最近見つかった多くの手紙(そのほとんどが家族に宛てたものである)が、以前から知られていたブルトン、フランケル、アラゴン宛ての手紙を付し、 Soixante-dix-neuf lettres de guerre [戦時の79通の手紙](J.-M. Place 1989)のタイトルで出版されている。

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そこから浮かび上がるヴァシェ像が、際立って修正されるということはない。
再び見いだされるものは彼の無遠慮さ ―― ブルトンに対するよりも控え目ではあるが ―― であり、何ものをも容赦しないニヒリズムである。

ヴァシェは、彼が積極的に嘲ったアポリネールのように、結集者でもなければ、クリエイターでもなかった。
むしろ、すべてを白紙に戻す活動家であった。

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最近の研究調査では、グループ一同が踏襲した、ブルトンの自殺という主張に反して、彼の突然死はきわめてアクシデントの可能性が高いと指摘されている。


「しかしアポリネールが本当にまだ生きているという自信が、あなたにはあるのかね?」
(1917年4月29日、ヴァシェ、ブルトン宛)

「だから我々は芸術も芸術家も好かないのさ(くたばれアポリネール)」
(1917年8月18日、ヴァシェ、ブルトン宛)

 アポリネールは我々に多くのことをしてくれた。そしてたしかに死んではいないよ。それに彼は、ちょうどいいところでやめたのさ――もういわれてることだけど、繰り返さなきゃいけない。彼は一時代を画したのさ。我々がこれからやっていける素晴らしいこと――さあ今こそだよ!
(1918年12月19日、ヴァシェ、ブルトン宛、ヴァシェからブルトンへの最後の手紙)


〔……〕じつは、私がもっとも多くを負うている人物と言えば、ジャック・ヴァシェなのだ。一九一六年の、ナントで彼とともに過ごした時間は、私にはほとんど魅入られたもののように感じられる。私は決して彼の姿を見失うまい、そしてこれから先、次々に人との出会いに恵まれる運命にあるとしても、そのなかの誰ひとりとして、彼ほど心から打ち解けられる相手はあるまいと思う。彼がいなければ、私はたぶん、一介の詩人にすぎなかったであろう。彼は私の裡にひそむ、何か天職というような馬鹿げたものを信じさせようとする密かな力の陰謀を、すっかり打ち砕いてしまったのだ。いままでは私の方も、今日の一部の若い作家たちが、文学上の野心などこれっぽっちも認めていないという事実と、自分が無関係でないことを歓びとしている。人間を探し求めるために発表する、それだけのことなのだ。人間たち――彼らを発見することに、私は日ごと興味をそそられる。

〔……〕そして、ジャック・ヴァシェの生涯の最後の段階は、あの有名な手紙、私の友人がみな空で憶えている、十一月十四日付の手紙によって劃されたものだ。「俺は戦争から抜け出そう、ゆっくりと垂れ流しながら。たぶん堂々と、村の、あの白痴のお歴々のように(そうありたいと思うんだ)……それとも……それとも……いったい、俺はどんな映画を演じるのだろう! ――いいか、狂った自動車や、ひんまがった橋や、画面を這いまわる大写しの手、いったいどんなドキュメントに進むのか! ――無益な、取るにも足りないことだ! ――それに、夜会服姿の、あんなにも悲劇的な対話があって」、云々。そして、私たちにとっては『地獄の一季節』以上に胸をえぐる、この錯乱――「俺はまた毛皮とりの猟師、それとも強盗、それとも捜索者、それとも狩人、それとも鐘つきになってやろう。アリゾナのバー(ウイスキー、ジンにミックス)や、探検できそうな素敵な森。わかるだろ、連発銃をつけた格好いい乗馬ズボンだ、髭はきれいにそって、手にはでかいダイヤを光らせる。こういうすべてが、火事で終るんだ、いやそれとも、金持になって、どこかのサロンに顔を出すか。――そりゃいい(ウエル)」。
(ブルトン「侮蔑的告白」、1923年2月、『ラ・ヴィ・モデルヌ』誌に発表、のち『失われた足跡』に収録)




日本アートNipponArtでは、 Alain et Odette Virmaux, Les Grandes figures du surréalisme international, Bordas, Paris, 1994.を「シュルレアリスム人名事典」と題して翻訳中です。あくまでも、ご参考までに。

今後とも日本アートNipponArtをよろしくお願いいたします。
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