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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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De la résistance à l'existentialisme

イメージ 1Quand naissait le théâtre d'aujourd'hui à Paris
09/11/1977 - 13min31s

A cette occasion du 100ème anniversaire de naissance d'Albert Camus.



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1944年。希望の年。悪夢の終わり。もうすぐそこには、実り多い戦後の日々が。
占領最後の日々から朝鮮戦争までの時代。今日のわれわれを驚かせている演劇のほとんどすべてがこの時代に始まります。文字に頼らず、豊富な証言と資料によって、まだそう遠くはない歴史をこれから見てみましょう。
 

 
ポール=ルイ・ミニョン[1]
アルベール・カミュの『誤解』[2]の初演、それは占領末期のことでした。この時代は演劇にとってはきわめて例外的な時期でして、それは演劇にとっては良いことなのですが、パリっ子たちが他に余暇を持っていなかったのです。演劇の愛好家たちは、実際、劇作家たちの新しい世代を待ち望んでいました。戦前、戦後の架け橋たらんとするジャン・アヌイは別にして、ジロドゥ、サラクルー、1920年から1940年の時期を彩った作家たち以外には他に見当たらないといった状況でした。そこに突然『誤解』が、ほどなくサルトルの『出口なし』と『蠅』が。私にはおそらく演劇というものを介して新しい哲学が、また新しい言葉が持ち込まれたものと思っています。それに、当時の激しく、厳しい時代に上手く合致した悲劇性への期待といったものもありました。観客は登場人物たちの運命に自身を見出そうと努めていましたから。主演マルセル・エラン[3]、マリア・カザレス[4]。マチュラン座。『誤解』上演最初の夜は衝撃であったと思います。それは言葉でした。実に悲劇性を帯びた言葉であり、登場人物たちはまるで囚人のようだったのですから。
 
[1] Paul-Louis Mignon (1920- ) 演劇批評家、現代演劇史家、演劇プロデューサー。

[2] Le Malentendu カミュ作の戯曲。執筆は43年。翌44年マチュラン座にて初演。出演マルセル・エラン、マリア・カザレスほか。この劇は、カミュの出世作小説『異邦人』の中で獄中にいる主人公のムルソーが発見する新聞記事がそのまま材料になっている。

[3] Marcel Herrand (1897-1953) 映画『悪魔が夜来る』(42)で騎士ルノーを、マルセル・カルネ監督の映画『天井桟敷の人々』(44)で無頼漢ラスネールを好演した俳優。初舞台はシュルレアリスム最初の戯曲といわれるアポリネールの『テイレシアスの乳房』(1917年、ルネ・モーベル劇場)。39年以降はマチュラン座の支配人でもあった。

[4] Maria Casarès (1922-1996) スペイン出身のフランスの舞台・映画女優。父親はスペインの内務大臣サンティアゴ・カザレス・キラーガ。36年に内乱を避け家族とともにパリに移住。コンセルヴァトワールで学ぶ。マチュラン座に入団し、42年『悲しみのデルドル』で初舞台を踏んだ。以来『誤解』『カラマーゾフの兄弟』など数多くの舞台に出演、悲劇女優としてパリ劇団で重きをなした。52年からはコメディー・フランセーズに所属、ついで国立民衆劇場に移った。映画では『天井桟敷の人々』のナタリー役をはじめ、『ブローニュの森の貴婦人たち』(45)のヒロイン、“死の女王”に扮したコクトーの『オルフェ』(49)など、いずれも名演で知られる。魅力ある声をいかして、多くの記録映画のナレーターもつとめた。
 

 
ギョーム・アノトー[1]
観客として私はカミュの『誤解』、この最初の上演に立ち合いました。私が観たなかでもとりわけ風変わりな初演のひとつです。1944年の5月、つまりは占領下の、占領末期の、このパリに軍が入城する数ヶ月前のことでした。パリはすでに間もなく解放されるという希望に満ちていました。ドイツ人はいました。けれども、すでに人々は頭を着飾っていましたし、もはやパリは数年前の戦に敗れたパリではなかったのでした。
カミュは有名な作家であると同時に、まったく無名の作家でありました。彼はフロール[2]では有名でした。「N・R・F」[3]周辺では有名でした。あらゆる知的な階層では有名であったわけですが、それは彼の『異邦人』[4]が大きく話題になっていたということ、ほどなく出た『シーシュポスの神話』[5]がよく読まれ、よく議論の的になっていたからでした。しかし、幻想を抱いてはいけません。この名声は左岸を越えるものではなかったのです。多くの人々にとって、カミュは完全に無名でありました。占領下の実際の批評家の多くでさえも、カミュのことは知らなかったのです。なので、客席はきわめて奇妙な、全くもって特異な雰囲気のものでした。カミュの信奉者たちがいる、カミュの大きな才能を知る人たちです。そして他の人たちはというと、ただ来た、劇で言わんとするところが何ひとつ分からないといった人たちであったと申さねばなりません。
 
[1] Guillaume Hanoteau (1908-1985) 弁護士、俳優、ジャーナリスト、脚本家、劇作家、作家。第二次世界大戦後のサン・ジェルマン・デ・プレ界隈に足しげく通ったこの時代の証人の一人。ジャズへの造詣も深い。

[2] Café de Flore カフェ・ド・フロール。サン=ジェルマン大通りに面するカフェ。レ・ドゥー=マゴとともに第二次大戦後の実存主義華やかなりし頃、セーヌ左岸の文士や芸術家たちで賑わった。

[3] N・R・F  新フランス評論誌。「NRF」は「Nouvelle Revue Française」の略称。1909年創刊。アンドレ・ジッド(1869-1951)を中心に、アンリ・ゲオン(1875-1944)、ジャック・コポー(後述)、ジャック・リヴィエール(1886-1925)、ジャン・シュランベルジュ(1877-1968)などを編集者として、20世紀のフランス文学の発展に多くの貢献をした雑誌。第二次大戦中の対独協力を理由に一時廃刊されたが、戦後「新N・R・F」として再出発、現在では昔どおり「N・R・F」となっている。

[4] L'Étranger カミュの中編小説。1939年ごろから執筆され、42年6月に発表。

[5] Le Mythe de Sisyphe カミュの随筆。42年12月に発表。
 

 
アルベール・カミュ
なんだって? なぜ僕が演劇をするかだって?
まあ、そのことについては随分と考えたんだ。そして僕が今もって僕にできるたった一つの答え。ひょっとすると平凡すぎて君をがっかりさせるかもしれない。それはほんと単純に、劇場の舞台ってところが僕が幸せでいられる場所の一つ、だからなんだ。
それでも一見平凡に見えるこの考えだけど、実はそうじゃないってことには気づいてほしい。今この時代、独創的に行動できるってのは「幸せ」だ。「貧しい」ってのは、隠れてコソコソそれをやったり、見たりすることを言う。バレエ・ローズ[1]にいたっては謝らなくっちゃならない。この点についてはみんな実に同意してくれている。
行動する人たちのことが手厳しい調子で書かれているのをよく目にする。オフィシャルな生活を捨てて、プライベートな生活に逃げ込んだ、避難した、と言ってね。だけどこの「逃げた」とか、「避難した」って言葉には、ちょっとした軽蔑の気持ちがあるとは思わないかい? 軽蔑。軽蔑ってのは、馬鹿にする気持ちがなければ成り立たないもんだぜ。
 
[1] Affaire des ballets roses バレエ・ローズ事件。1959年1月に発覚し、この年のフランス社会を席捲したセックス・スキャンダル。老齢の裕福な名士たちが、14歳から20歳までの未成年の少女たち(別の説では12歳から18歳。いずれにしてもフランスでは1974年まで成人年齢は21歳であった。現在では18歳)を演し物に、パリ近郊随所で秘密裏にみだらなパーティーを行なっていたというもの。名士たちのコネクションによって将来を約束された少女たちは、アルコール、ドラッグを供され、面前でエロティックなダンスを披露していた。少女たちの母親のいく人は、娘のためと、黙認していたという。告訴された名士数10名の中には、大戦中ドゴール陣営に所属し、臨時政府国務相、第4共和制国民議会議長(1956-1958)を務めたアンドレ・ル・トロケ André Le Troquer 1884-1963 がおり、事件は一大スキャンダルへと発展したのであった。バレエ・ローズ(バラ色のバレエ)は少女たちが艶やかな振付けのダンスをしていたことから、記者が事件をそう命名したもの。多くの噂が飛び交ったが、この事件以降、フランス語で「バレエ・ローズ」といえば未成年の少女たちを犠牲に供される乱交パーティーを比喩的に指す。この事件からの派生語に「バレエ・ブルー ballets bleus 」(青色のバレエ)、こちらの方は未成年の少年たちを犠牲に供される乱交パーティーを指す。
 


ギョーム・アノトー
彼にとって、人生は意味を持たないものでした。人生は不条理なものではありましたが、人々はこの不条理を受け入れねば、否、むしろ、時代の隠語であるかのように、この不条理を人々は引き受けなければならなかったのです。『誤解』では、アルベール・カミュは同じ命題を主張しました。
 

 
ジャン・ネグローニ[1]
アルベール・カミュはアルジェのちょっとした王様でした。彼の周囲には、知識人たちの、芸術家たちの、彼に従う、彼に耳を傾ける人たちのグループというべきものが、大きな尊敬の念をもって、すでにです、それに、大きな共感が存在しました。
カミュには労働者、仕事の鬼といった何かしら変わったところもありました。それと同時に、何をするにも演じながらしているのではないか、そう思わせるものが絶えずありました。
 
[1] Jean Négroni (1920-2005) 俳優、演出家。コンスタンティーヌ(アルジェリア)の生まれ。アルベール・カミュから演劇の手ほどきを受ける。ジャン・ヴィラール(1912-1971)に協力して、民衆演劇運動、アヴィニョン演劇祭の開催に尽力。出演映画に『危険を買う男』(76)など。
 

 
アルベール・カミュ
演劇では逆に、仕事の成果は、苦かろうと甘かろうと、一晩で回収されてしまう。ずっとずっと待ち焦がれた夜だ。日々、日夜の仕事はこの夜に結びついている。共にする冒険。危険は至る所にある。そうしてただ一つの目的に向かって邁進する女たちの、男たちのチームが生み出される。そして、ついに劇が演じられる。この長く待ち焦がれた夜は、冒険に比べたらずっといいものだ、ずっと美しいものにちがいない。
 
 
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