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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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フランスが戦火に襲われた時、サン・ジェルマン・デ・プレはまだ、申し分なく、田舎じみた界隈でした。
それから4年後、そこはヴィレッジ。動乱のさ中で道に迷った知識人たちにとっての安住の地でした。
 


 
ギョーム・アノトー
ヴィユー=コロンビエ座[1]はいつの時代にも大胆な試みに運命づけられた劇場でした。まず迎え入れたのは、1914年の大戦前のヴィユー=コロンビエ座はジャック・コポーの[2]、「新フランス評論」のヴィユー=コロンビエ座であり、大戦後は映画館に、けれども前衛映画の、ジャン・テデスコ[3]の映画館であります。コクトーの『詩人の血』が上演されたのはここになります。そしてジャン=ポール・サルトルがその2作目となる戯曲『出口なし』[4]を発表したのもここです。彼の主張するところの哲学、ジャーナリストたちはほどなく、その是非はともかく、実存主義哲学と名付けました。
 
[1] Théâtre du Vieux-Colombier フランスの劇場。もとは19世紀初頭からメロドラマ上演の小劇場でアテネ・サン・ジェルマン座と呼ばれたが、1913年ジャック・コポーがあいていたのをそのまま借りて、町の名をそのままとり、現在の名をつけた。商業演劇に反抗し、演劇の改革を目指したコポーの根拠地となり、特に第1次大戦直後に完成したコンクリート造りの常設舞台は、演技の場の立体的な組合せと、装置の徹底した単純化によって、新しい演出スタイルを生み出すのに役立った。24年コポーがパリを離れるとともに、劇場は映画館となる。コポーに従った若い役者群から誕生した<十五人組>が1930年代初頭に再活用したのち、44年『出口なし』、45年ヴィラールによるT.S.エリオットの『寺院の殺人』初演等で小劇場隆盛の一翼を担い<左岸の劇場>として機能するも、70年代に完全閉鎖。86年国が入手し、改築の末、93年4月コメディ・フランセーズのおもに現代劇を上演する第2劇場として再開場、現在にいたっている。

[2] Jacques Copeau (1879-1949) フランス現代劇の父。1909年文芸誌「NRF」の創刊に参加したのち、13年同人たちの協力を得てヴィユー=コロンビエ座を創立、当時支配的であった商業演劇に対抗して、演劇の芸術性を蘇らせることを目指す。レパートリーは中世から現代まで幅広く、外国作品も取上げた。俳優養成学校も手掛け、弟子たちは地方演劇の活性化に貢献した。

[3] Jean Tedesco (1895-1959) 批評家、シナリオライター、映画監督。1924年から1934年にかけてコポーが離れた後のヴィユー=コロンビエ座の支配人を務め、前衛的な映画館として劇場を再生させた。

[4] Huis Clos サルトル作の戯曲。1944年5月、ヴィユー=コロンビエ座にて初演。演出Raymond Rouleau、装置Max Douy、配役Michel Vitold (Garcin)、Tania Balachova (Inès)、Gaby Sylvia (Estelle)、R.J. Chauffard (le garçon)。
 



ポール=ルイ・ミニョン
『出口なし』の初演? まずはレイモン・ルーロー[1]の演出、ミシェル・ヴィトルド、ギャビー・シルヴィア、タニア・バラショヴァの演技がとりわけ記憶に残っています。つまりは、きわめてリアリスティックな演技だったということ、芸術上の効果はあるがままに任せられていたことは忘れてなりません。思うに、この時からレイモン・ルーローは劇の最後、舞台の背景に地獄の炎を出させていたと思います。マックス・ドゥイのアイデアかと思われます。
 
[1] Raymond Rouleau (1904-1981) ベルギー出身の俳優、演出家、映画監督。ブリュッセルのコンセルヴァトワールで音楽、絵画、演劇を学ぶ。27年パリに出てシャルル・デュラン、アントナン・アルトーらと仕事を共にする。35年ブリュッセルに帰りマレー座の支配人、37年パリに再び出てテアトル・ド・ミニュイを創設。44〜51年は制作座を運営。後進の指導に当たるなど多方面にわたり演劇界に多大の貢献をする。この間27年、マルセル・ルビエ監督の『金』を最初に映画にも出演し始め、名優の名をほしいままにした。
 



ミシェル・オークレール[1]
『出口なし』? 覚えてるよ。初演を観たんだ。ヴィトルド、タニア・バラショヴァ、ギャビー・シルヴィア、ショファール、だ。それは、42年から44年の、だいたいそれぐらいのことだったと思う。強い印象が残っている。思ったのは、この劇は、ううん、その、つまり、まったく独創的だって、当時の演劇の状況にしてはね。それに、この劇は、時代の先を行っていると思ったんだ。

[1] Michel Auclair (1922-1988) 俳優。本名Vladimir Vujovic。ドイツ生まれ。父はセルヴィア人、母はフランス人。子供のころドイツを離れフランスに移住。医者になるつもりが演劇に興味をおぼえ、パリのコンセルヴァトワールに学んだ。41年、制作座で初舞台。映画では『美女と野獣』(45)、『情婦マノン』(48)などでみずみずしい青年像を演じて戦後のフランス映画界を代表する若年スターとなった。
 


 
ポール=ルイ・ミニョン
『蠅』[1]において、サルトルは現状の大きな問題を、ヴィシーの、占領の、敗北の問題を古代の神話を通じてすでにわれわれに提起していました。なので期待するところがあったのです、要求の多い観客たちです、サルトルは率直に、より直接的に時代の問題に取り組むのではないかと。しかし1944年に、44年の終わりにそれは不可能なことでした。
ところが実際、『出口なし』の登場人物たちに向き合って見えてくるのは、フランス国内に数多いた捕虜たち、フランス国外に数多いたドイツ人の捕虜たちの、惨劇、悲劇でありました。両者は互いのことは知りません。まさに囚われ人そのものであり、一方はすぐにでも他方を裏切ってしまう可能性がある。一見抽象的なゲーム、知的なゲームに思える劇ではありましたが、観客はここにリアリティーを感じ、実に上手く理解することができたのではないでしょうか。

[1] Les Mouches 1943年、サルトル作の戯曲。シャルル・デュランの演出のもとに占領下のパリで初演された。題材はギリシア悲劇「オレステス」から借りているが、必ずしもすべてが同じではない。当時の占領軍に対する巧妙な比喩が隠されている。
 
 
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