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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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解放の時。フランス人は侮辱、飢餓とひどく苦しめた敵から解放されたのみならず、強いられていた沈黙からも解放されたのでした。
占領下、演劇人は嘘か無害か、あるいはせいぜいつぶやくかの真実を選んで決めなければなりませんでした。
そこに突如、砲弾の、戦車の砕ける激しい音に包まれて、フランス人は考える権利を取り戻したのでした。
 


 
ギョーム・アノトー
のちにエベルト座となる芸術劇場[1]ですが、制作座やヴィユー=コロンビエ座同様、過去があります。それは、この町の劇場が、かつてはテアトル・デ・バティニョールと呼ばれていましたが、前衛的な劇場になったこと、とりわけのちにオペラ座の支配人となるジャック・ルーシェ[2]を迎え入れたことです。彼はロシア・バレエ団の影響を受けた、当時じつに興味深い初演を行ないましたし、とりわけ名クチュリエ、ポワレ[3]を劇場に招き入れました。
 
[1] Théâtre des Batignolles (1838-1907) → Théâtre des Arts (1907-1940) → Théâtre Hébertot (1940-1976) → Théâtre des Arts-Hébertot (1976-現在)

[2] Jacques Rouché (1862-1957) 興行主、演出家。ヨーロッパ各地を巡歴し当時のフランスでまったく知られていなかったクレイグ、スタニスラフスキー、ライハルトらをその著『近代舞台芸術』(10)に紹介した。芸術劇場の監督となり(10-13)、数々の演劇やオペラ作品を上演。1915年から45年までパリ・オペラ座の支配人を務め、フランスの作品のほかにワーグナーやヴェルディ、ムソルクスキーたちの作品を取り上げ、広範なレパートリーを備えて行った。彼の功績によってパレ・ガルニエ(パリ・オペラ座)は世界で最も立派な劇場の一つとなった。

[3] Paul Poiret (1879-1944) 大胆な色使いによる豪奢でドラマティックな作品で「モードの帝王」とあだ名される。コルセットの束縛から女性を解放する直線的なハイ・ウエストのドレスや、ジャポニスムやバレエ・リュスなどの影響を受けたキモノ風コート、ホブル・ドレス、ランプ・シェード・スタイルなどオリエンタル・ファッションを次々と発表。20世紀初頭の時代感覚を鋭く感知し、モードの新しい方向性を打ち出した。また工芸学校「マルティーヌ」を設立し、ラウル・デュフィら多くの若手アーティストを支援した。
 


 
ジョルジュ・ヴィタリー[1]
私は45年と46年、3人の比類ない人物に出会う幸運に恵まれました。ジェラール・フィリップ[2]。『カリギュラ』[3]でのパートナーでして、彼と共演いたしました。アルベール・カミュ。並はずれた才能の作家であり、仕事上では大親友でありました。そしてジャック・エベルト[4]。今ではもう見受けられないような、パリではよく知られた演劇界の著名人でした。自身の劇場を指揮していましたが、そこは今では元の芸術劇場に戻っています。
 
[1] Georges Vitaly (1917-2007) 俳優。演出家。劇場支配人。45年『カリギュラ』初演に出演。

[2] Gérard Philipe (1922-1959) フランス映画を代表する永遠の二枚目スター。先に演劇で実力が認められた。とりわけ45年9月、エベルト座での『カリギュラ』主役カリギュラの演技によってパリ劇壇における人気を不動のものとした。早世するまで多彩な作品に出演しその力を発揮したが、洗練されたデリケートな演技で人妻を愛する高校生を好演した映画『肉体の悪魔』(47、公開52年)が代表作であろうか。

[3] Caligula カミュの戯曲。1945年エベルト座初演。出演ジェラール・フィリップ、マルゴ・リオン、ジョルジュ・ヴィタリー、ミシェル・ブーケほか。カミュは『異邦人』『シーシュポスの神話』『カリギュラ』を「不条理三部作 cycle de l'absurde 」と位置づけている。

[4] Jacques Hébertot (1886-1970) 劇場経営者、プロデューサー。詩人でもあった。第一次大戦後、スウェーデンで「スウェーデン・バレエ団」を組織しパリのシャンゼリゼ劇場に入る。1920年から25年までコメディ・デ・シャンゼリゼ劇場支配人となり、その在任中同劇場内の画廊を改造して「ステュディオ・デ・シャンゼリゼ」を創立。ジュヴェに支配人の席を譲ったのち、26年マチュラン座を経営、40年からルーシェの「芸術劇場」を引き受けエベルト座と改称して座主となり、ジロドゥ、カミュ、クローデル、モンテルラン、コクトーなどの作品を上演した。
 



ギョーム・アノトー
芸術劇場で初演された『カリギュラ』ですが、勘違いには悩まされました。多くの観客が、とりわけ多くの批評家が、これが非常に深刻なことだったのですが、『カリギュラ』がカミュの第2作目の戯曲と信じてしまったことなのです。事実は全く違います。『カリギュラ』が書かれたのは『誤解』のずっと前だったのですから。
 


 
ポール=ルイ・ミニョン
カミュには主役にジェラール・フィリップがいました。ジェラール・フィリップはその感性で、異常さで、それに彼の個性の強さが見事にこの叫びを爆発させていました。
 


 
ミシェル・ブーケ[1]
『カリギュラ』の時、思い出すのは台本でしょうか、なので演出をしていたのは彼であったわけですが、カミュは演出家ではなかった、いわば、作家のようなものでした。けれども作家として彼はすでに演出をしていましたし、アマチュアの演劇集団を抱えていたこともありました。とはいえ、最初この劇に対して真正面から演出に立ち向かう勇気を彼は持ってはいませんでした。
 
[1] Michel Bouquet (1926- ) 舞台・映画俳優。『カリギュラ』初演に出演。『トト・ザ・ヒーロー』(91)で主人公トトに扮して好演、フランス映画界に欠かせない俳優である。
 



ジャン・ネグローニ
すぐにでも、熱い男だ、大変な魅力が、それに大きな明晰さが、大きな冷静さがある、と言わせることのできた男でした。この混ざり合わさった感じが、カミュをして、すぐにけた外れの人物と思わせていました。
 



ミシェル・ブーケ
彼についてはより鮮明で、鮮やかな思い出があります。ある日のリハーサルの後で、1回目か2回目のリハーサルだったと思います。その日の午後いっぱいをこんな風に仕事でつぶしました。そして彼に「お疲れ様」を言おうとコートを取ったかどうか、まあ舞台の前の照明装置にかがみ込んで、彼に「お疲れ様」と言ったのです。すると彼も「お疲れ様」と、とても丁寧に言ってくれて、私の手を握ったのです。本当にこの感覚が、私はエピソードとして語りたいのではありません。本当に、一人の人間と握手をするという感覚を、人生で初めて、私は味わったのです。私は本当に友愛の感覚を感じました。友愛というものを生まれながらに備えた男の握手でした。
 



アルベール・カミュ
与えられることと与えること。これが僕が最初に話した幸せであり、罪のない人生ではないでしょうか?
そうだ。これこそ人生だ。強くて、自由だ。僕たちがまさしく必要とするものだ。
 
 
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アルベール・カミュ Albert Camus 1913.11.7〜1960.1/4

アルジェリア生れ。フランス人入植者の父が幼時に戦死、不自由な子供時代を送る。高等中学(リセ)の師の影響で文学に目覚める。アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第2次大戦時は反戦記事を書き活躍。またアマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。1942年『異邦人』が絶賛され、『ペスト』『カリギュラ』等で地位を固めるが、1951年『反抗的人間』を巡りサルトルと論争し、次第に孤立。以後、持病の肺病と闘いつつ、『転落』等を発表。1957年ノーベル文学賞受賞。1960年1月パリ近郊において交通事故で死亡。(新潮文庫・著者プロフィールより)
 

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