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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

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Tristan Tzara

イメージ 1En Français dans le texte
01 janv. 1961 | 10min 28s

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“『フランス語で』〔番組名〕、一の一。”


――トリスタン・ツァラ。半世紀近く前から、あなたの名前や活動は、思想や、非同調的なアートに関心あるすべての人々のあいだで、有名です。あなたはご自身を、シュルレアリスム運動のプロモーター、ないしはプロモーターの一人であると、お考えでしょうか?


ツァラ “プロモーター”とは、大げさな言い方。まあ、ダダは、シュルレアリスムの形成に、また、思想の次元においても、詩の、芸術の次元においても、多大なる重要性があったと、一般に、申せましょう。とはいえ、“プロモーター”と申しますと、ダダ同様、シュルレアリスムにも、多くのプロモーターがおりました。つまり、近い考えを、のちに展開されることになる考えを、持った人物が、おりました。たとえばアポリネール。たとえばピカソ。さらにさかのぼりますと、たとえばジャリが、サン=ポル・ルーが、ロートレアモンが。まあ、あなたもよくご存知、彼ら3名はダダイズムの、同時にシュルレアリスムの、先駆者。


――ダダイズム、またはダダ運動とは何であったか、お話し下さい。


“カット。”


“『フランス語で』、三の五。”


――ダダ運動とはいったい何だったのでしょう?


ツァラ ダダは反抗の運動、ひとつの「精神状態」。あらゆる思春期の若者に固有の反抗に、とりわけ、われわれ世代の反抗に、呼応するものでした。


――ええ、ですが、戦争を知る若者たち、でした。第一次大戦後、すぐでした。


ツァラ 戦中です。


――ええ、戦中。


ツァラ ダダはスイスで、1916年に生まれました。私としては、まだ20歳にすぎず、で、私たち全員が、アルプ、バル、ら、運動に参加していた全員が、この時期の、あらゆる間違った価値観に、偽りの倫理、道徳に、偽物の芸術、大文字の芸術に、反抗していました。


――つまり単なる芸術運動、美術運動、文学の一派、ではなかったと?


ツァラ ダダの表現手段は、しかし、アーティスティックかつ文学的なものでした。が、われわれは望んではいませんでした。運動が、用語のクラシックな意味合いで、文学の一派になることを。


――なぜ「ダダ」という言葉を?


ツァラ ダダは偶然、辞書の中から選ばれました。まさに「何も意味しない」ためであり、いかなるドグマティズムにも、われわれが束縛されないためでした。


――型にはまった言語表現への嫌悪感を出すためにも?


ツァラ それに、もちろんそうです。それにまた、すでに名のある、あらゆる芸術の流派が、ある種の意志で、あらかじめ決められた意味に向かって進む、からでした。その方向性に、芸術の、文学の主要目的、人間を、あらゆる種類の関心事の中心に据える目的が、隠れてしまっていたからでした。


――ゆえにダダは、イニシアティブある個人の集まりでした。めいめいが、ダダ運動の中にあって、きわめて自由でした。


ツァラ ええ! われわれが固執したところ、ダダはドグマ的でない、というところです。


――あなた方に共通してあったのは、大きな反抗心だけ、でした?


ツァラ おっしゃる通り。その反抗心は、各自にあって、違ったやり方で、表現されていました。それでも、全員が、同じ方向を向いていました。方向は、人間の、個人の自由を手に入れるため、芸術の様式を出る、ことでした。


――ゆえにシュルレアリスム運動は、ダダ運動のまさに後に、誕生した。


ツァラ ええ。ダダの誕生は1916年のチューリッヒなので。


――シュルレアリスムは?


ツァラ 1924年のパリ。1920年に私はパリにやって来ました。ダダはパリで、とても大きな反響がありました。


――ダダはパリのムーブメントになりました。


ツァラ ええ。大いに、大きなスキャンダルを引き起こしました。それに、スキャンダルの歴史は、ダダによって区切られると、言われます。


――今日、あなたはもはや、文学の、美術の次元で、スキャンダルは無理だ、とお考えですか?


ツァラ もはや時代に逆行すること〔世の流れや進歩に逆らうこと〕でしか、スキャンダルは無理です。


――たとえば?


ツァラ たとえば、ダリのように。スキャンダルを起こすには、ローマ法王に会いに行くのです。


――すると、あなたは極度に、極端な伝統主義〔保守反動〕でなければ、スキャンダルは無理だと考える?


ツァラ ええ! でも、まだまだ、まだまだ(笑)〔極端な伝統主義であったとしても、スキャンダルはそう容易にはいかない〕


――(笑) ところで、その時期、1920年、あなたのパリ到着、あなたが出会うのは、エリュアール、アラゴン、ブルトン、といった人たちです。


ツァラ ええ。彼ら全員、私の友人、私の大親友。ブルトン、アラゴン、スーポー、が、すでに雑誌『ダダ』に、寄稿していました。1918年から。


――その時期、彼ら全員が、ダダ運動に?


ツァラ ええ、そうです。ピカビアも、リブモン=デセーニュも、他にも数人。


――そうして、シュルレアリスム運動が、あなたの友人の何人かとともに、誕生する。


ツァラ いいえ。やはり過去を、さかのぼらなければ。『文学』誌、ブルトン、スーポー、アラゴンが、1919年から編集した雑誌が、パリにおける、ダダの中枢だったのです。彼らはダダに、全面的に賛同していました。で、1922年になって初めて、重要な決裂が、あったのです。なぜならその時、パリで、現代芸術の潮流を定義する、会議が招集されたのです。ところがダダは、自身を現代の運動とは、見なしておりません。唯一、ブルトンとアラゴンが、この会議の擁護者でした。それに対して、反対したのが、エリュアール、バンジャマン・ペレ、リブモン=デセーニュ、スーポー、私自身、他にも多く。


――ゆえに、反抗を、美術の次元に移行させるべきと考える一派と、一方で、反抗を、純粋な状態で維持しようと考える一派がいた?


ツァラ ええ、もしそう言えるなら。


――そうして、それから、シュルレアリスムに、ブルトン、エリュアール、ペレ、知られるところの全員が結集すると、シュルレアリスムとあなたのあいだで、決裂がありました。


ツァラ ええ。1922年、22年か23年から、決裂がありました。


――なぜです?


ツァラ それはまさに私が、シュルレアリスム運動が、すでに当時、形を成してきており、姿を現すのは1924年になってからですが、ドグマ的、かつ体系的になると、思えなかったからです。


――それからあなたと関係を絶たせる、政治的理由がありました。


ツァラ 後です。後です。その時期に関して言えるのは、ダダのある種の体系化、についてだけです。


――なぜ今日、シュルレアリストたち、ないし、そこにとどまる者たち、なぜあなたを憎むのでしょう?


ツァラ おっ! それは、言うに、難しい(微苦笑) おそらく、彼らが私を、彼らに非常に近いと思っているからでしょうし、私が彼らの、シュルレアリストたちの意見に、与しないからでしょう。が、昔からのグループにはもうブルトンしかいません。


――もちろんです。


ツァラ 他の人たち、若者たち、私は彼らを知りませんし、彼らの活動も知りません。なので、言えないでしょう。


――けれども戦争の直前、まあそれより前か、シュルレアリストたちが共産党に入党するという、一時期がありました。


ツァラ ええ。私は、再び、行動の自由を維持しつつも、シュルレアリスムのグループに、賛同しました。1929年のことで、1935年まで、グループにいました。私は自ら、グループを離れましたが、理由は、政治的なものだったと、言えるでしょう。私たち、クルヴェルと私、シュルレアリスムのグループを去りました、が、理由は、ここであなたに説明するのは、とても難しい。ですが、政治的影響が、多く働いたのは、疑いない。時代が、AEAR、革命的作家芸術家協会〔ヴァイヤン=クーチュリエによって1932年に設立された共産党系組織〕が、できる時代。極端に活気ある、激動の時代であったと、申さねばなりません。というも、初めて、作家たち、芸術家たちが、深く、政治問題に、時事問題に、関心を抱き、取り組んだ、時代だったのですから。


――そうですが、すでにそれは、アンガジュマン〔作家・知識人の社会参加、政治参加〕?


ツァラ アンガジュマン、ええ。まさに、つまりは。


――あなたはこのアンガジュマンにいた?


ツァラ 私のアンガジュマンは、スペイン内戦後。内戦が、大きく私を、決定づけました。で、レジスタンス期も、私の行動は、同じ。


――今日、あなたは、シュルレアリスムは時代遅れ、と思われますか?


ツァラ 時代遅れかどうか、分かりませんが、いずれにせよ、今日的でない。


――シュルレアリスムが、現代人の生活に適応されない。社会の、政治の、道徳・倫理の、哲学の、学問の、状況・状態に適応されないのは、なぜだと思われますか?


ツァラ シュルレアリスムは真の必要に、それらの領域で応えましたが、それも戦争の初めまで、と申せましょう。状況が、あまりにも変わってしまいました。


――世の中、変わった?


ツァラ 世の中、変わった。けれど、シュルレアリストは変わらなかった。で、私は思うのですが、グループというもの、いつの時代も、歴史的に、社会的に、運動を動かすものであります。シュルレアリスムの影響が、生きていようがいまいが、生きているのは疑いの余地ありませんが、われわれは、ロマン主義の影響を、まだあるものとして、話すこともできましょう。けれども、ロマン主義のグループ、われわれは今日、その可能性を、思いつけません。


――あなたは新しい運動が、同じ次元の反抗の運動が、生まれるのを目撃されていますか?


ツァラ いいえ。私は、シュルレアリスムのとても大きな影響を、まだ、今日の詩人たち、画家たちに、目撃しますが、運動が生まれるには、私たちの生活状況もまた、変わらねばならないでしょう。私たちのいる今は、不確かで、何かが生まれるのを待っている時間で、今われわれにできるのは、待つことだけです。で、私は、若い人たちの運動がやって来るのを、実に望んでおります。そこにわれわれが、一丸となって結集する。私たちが、私たちの先駆者たちと、結合したように。


――この世界はそれでも、開かれている、との印象をお持ちではありませんか? ファンタスティックなものに開かれた扉が、この世界には無数にある。だが、不思議なことに、この世界には入口があまたあるのに、哲学の、芸術の、文学の、運動が生まれない。


ツァラ ええ。科学〔進歩〕が、芸術運動よりも先にある、のは事実です。


――ええ。詩は、数学か物理学に、逃げ込んでしまったかのようです。


ツァラ ええ(微苦笑)


――けれどもあなたは、あなたの周囲に、何も目撃されないのでしょうか? 若い人たち、間違いなく、あなたを訪ねる、あなたの周囲にいる、あなたに手紙を書く人たちに、何かが生まれるのを、何も目撃されない?


ツァラ 私は多くの才能に出会います。私は、物事を、いとも簡単にこなす能力に出会います。私は、並外れの頭のよさ、際立つ知識量ある人たちに、出会います。けれども、まさに私を驚かせるもの、私はまだです。ええ、私はまだ出会っておりません。まさに、私の待つところ、です。


――あなたを驚かすところを?


ツァラ 私を驚かすところを(微笑)


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トリスタン・ツァラ Tristan Tzara 1896.04.16〜1963.12.25

1896年ルーマニアのモイネシュティに生まれ、1963年にパリで死んだ。詩人だが、彼の名は概してダダ運動そのもと同一視される。事実、16年チューリヒでダダを創始し、そのもっとも活潑な指導者となった。20年、パリにあらわれて「文学」誌のグループとまじわる。この雑誌運動の延長であるシュルレアリスムからは最初はなれた位置にいたが、28年に参加。だがのちにふたたび離脱して共産党に入党、抵抗運動にも加わった。その光彩陸離たる作品群はこんにち再評価されつつある。

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