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もはや、自分自身を軽蔑することのできないような、最も軽蔑すべき人間の時代

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TRISTAN TZARA
Avant que la nuit...
1930

 

イメージ 1明晰なものと見なされている個人と、植民地におけるような、疑いなく不公平な社会との根源的関わり。シュルレアリスム的思考は両者をいかに結びつけるのか。同誌〔『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌〕のレイアウトは象徴的、きわめて具体的なかたちでそれを例証している。この雑誌の第1号では、欄外が政治上の事件の報告か、論戦的な抗議文にすっかり占められる一方で、その中心にはリリカルなテキストが展開されている。エリュアールの論評なしの小記事〔前述の「イエンバイ」〕に並列されるのは、トリスタン・ツァラの怒りの長篇散文詩、その抜粋である。詩は雑誌2ページにもわたるが、終止符一つの一文である。

 
 
トリスタン・ツァラ
夜の前に
 
夜が訪れる前に、液体状態と固体状態との間に停止した空気のように混濁したこのひと時に、すべてが己れの羞恥の姿を隠そうと望む時に、物音さえしばらくの間勇気なく飛び去る時に、あたかも無残な自殺者の死の新しい告知が貴重な存在の人の中で胸いっぱいにわれわれを打つように、花瓶に溢れつつある感覚がおのおのの人の胸の中で苦悩とともに根を張る時に、生への憤しみが苦悩を大きな感謝の気持ちに変えることができる時に、幾多の屍体の山がわれわれの内で硬化した冬を温め半ば腐敗させ、休息のない快活の慢性的苦渋の中で見知られた人びとが(悲しみはかくも奇妙な外観を装うためにはあれほど明白な印し中でなお力強くなければならないのか)憎しみの錯乱、喜びだけがそして最も生き生きした喜びだけが魂の純粋さをかくも優しい高度にまで高める狂乱、この憎しみの錯乱の中で破壊への激しい喜びで自らの手足を切断し自らを引き裂き自らを圧殺する時に――夜が訪れる前に、それと知らずおのおのの人の声の中で震えるこのひと時に、目に見えぬものも少なくとも頽廃の素材――肉体的苦悩は頽廃的であるゆえに――と同様に重要と考え、自らが苦悩の奴隷であることを知ったために人間としての自尊心を傷つけられたあの少数の心の磨かれた人びとにしか感知されないひと時に、縁日の市でのように運命が、富籤の抽籤器、火を食うもの、の中で、誤解に満ちた自らの創造物、私が立ち戻るであろう主題そして他の人びとがシャンソンの中でするように振り向かないで立ち戻った主題を挽き潰そうとして、鋼鉄の歯を見せて愉しんでいる時に、最後に、苦い坂道を私に登らせないために、夜が訪れる前に、すなわち、うがたれた胸の中でなお長く見える空気の長い呼吸であり、おそらく絶後の叫びとなるような叫びを発するための無用な事象が自然の意図の中に凝集されさえしている、長い呼吸であるひと時に、嫌悪よ、私はお前の名を呼ぼうと思ったのだ、事物と人びとの感覚の後ろに隠されて生き、粘液の呪詛でこの世界を浸しながら存在し続けて生きたお前の名を、かつ変貌したこともなく、時々は荒れ狂う力で拡散し、われわれのためらう足どりの前を傲り昂って身を拡げながら人間の絶望の記憶を絶する深い層の下に常に埋没していたお前の名を、嫌悪よ、私はお前の名を、響きのない悪意のない声で、自らを想い起すには痛みと苦い嘆きと回帰のない痛みとを味合わねばならぬあの無限の道程の中でもろもろの人の声を集めたひとつの声で、憎しみの束の中に集められたありとあらゆる声で、呼ぼうと思ったのだ、私はお前の名を呼ぶ、嫌悪よ、私を助けにくるように、お前の醜悪な顔がこの世界の中ほどに湧き上がり、お前の汚れた恋人たちの名を数え上げることができるように、お前の醜い顔が混種の未決定の群衆を均質ないくつかの群れに分けることができるように、腹黒い嫌悪よ、私はお前の名を呼ぶ、われわれの活動を緩慢にさせるお前の名を、われわれの眼差しがかき集めたものの、われわれの手が触れたものの、思考が置き換えようと試みるあるいは歌おうと試みたものの、少なくとも半ばを苛酷な身代金として奪って行くお前の名を、われわれの憎しみを軽減させ、われわれの中に生れわれわれの内に生長し、われわれの内にある愛と太陽との間の土牢の中で戦う暗殺者を落胆させるお前の名を、嫌悪よ、お前の顔が悪魔のような暗黒の中から現われでるであろう時、そしてお前の顔が悪臭に満ちた物質で空の半ばを被いつくすであろう時、答えは、打ち勝ち難い憎しみの方へのみ輝く光として、おそらく、それぞれの人の言葉の中に開かれるであろう。(浜田明訳)
 
初出は『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌(第1号、1930年)、のちに詩集『反頭脳』(1933年)に再録
 

A VOUS DE LIRE

イメージ 2ツァラ詩集
トリスタン ツァラ (著), ルネ ラコート (編集), 浜田 明 (翻訳)
思潮社; 新装版 1995年
1916年、チューリッヒのカフェ・テラスで、20歳のツァラは「ダダ」を宣言する。以後熱狂的な支持を浴びつつ、アラゴン、ブルトン、エリュアールらと接触、ダダからシュルレアリスムへの展開を果たす。『近似的人間』『反頭脳』その他主要作を網羅して、ツァラの軌跡を跡づけた1巻選集。
 
 
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PAUL ÉLUARD
Yen-Bay
1930
 

イメージ 1
その数年後、第一の反乱がフランス領インドシナで生じる。リードするのは、知識人で構成された少数のグループである。思慮分別のある人は、当然のごとく、この当時のインドシナには、自立した、いかなる経済力、政治力はないと判断する。ところで『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌においては、エリュアールの筆で、1930年に発生した安南の最初の民族革命の一つ、イエンバイの悲劇の蜂起、その顛末を詳述している。
 

 
 
ポール・エリュアール
イエンバイ
 
世界には二つの人種しか存在しない。抑圧する者と抑圧される者だ。フランスの束縛からの自由を絶望的なまでに試みるインドシナの革命家たちは、全世界の抑圧される者たちの代弁者である。
 
『革命に奉仕するシュルレアリスム』(第1号、1930年7月)
 
 
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PAUL ÉLUARD
La suppression de l'esclavage
1925
 
独立のための闘争。1925年4月、ポール・エリュアールは『シュルレアリスム革命』誌第3号に「奴隷制度の廃止」と題する文章を掲載する。
 

ポール・エリュアール
奴隷制度の廃止
 
自分たちの独立のために闘う民族は、自分たちの土地を、伝統を、風習を、宗教を、守り抜いてこそはじめて、外国人であろうと同国人であろうと、自分たちのあらゆる主人どもは追い出せるのだと気付くだろう。かくも自由の味は、自由を求めて闘うことで、味わえる。イエスこのかたこの若き優秀なパイロットまで、切り首を前にしたガリア的、美しき文明開化の担い手どもよ。あなた方の支配の終わりが、人間の、精神の、全面的解放の始まりを告げるだろう。ヨーロッパの支配的地位、それは軍事力とキリスト教、軍隊あっての十字架頼みにすぎぬ。支配される者たちは征服者どもに無表情しか見せぬが、その仮面の下では、思想が、全力の憎しみでもって育まれているのだ。獣だ。しかし、あなた方の最悪の福音主義者どもより、あなた方にとって、危険な獣だ。なにせ獣は自分たちのことだけに敏感であるゆえに。なにせあなた方は虚無を抱えてる。獣はその中へとあなた方を突き落とすだろうから。
あなた方は、これら奴隷の中でもストイックな者たちが、頽廃の白色人種の愚かな暴虐に永遠耐え続けるとお考えでありましょうか。エジプトやインドでは、イギリス人どもが出すぎたために暴動寸前、知識人全員がイギリスに反旗を翻している。インドシナでは白人は屍骸にすぎず、その汚物が黄色人種の鼻っ先にぶちまけられている。ジャワでは、オランダ人が使用人たち大勢を孕ませているが、時おり、喉をかっ切って殺してみたり、1722年すでに、広範囲な大量殺戮を夢見たピーテル・エルヴェルフェルトの想い出をうやうやしく温めている有り様。アフリカでは至る所、人間が犬以上にどつかれている。マルチニーク島の、グアドループの奴隷たちが解放されたとき、彼らがいささかの同情心もなく入植者たちを殺戮すると、軍は恐怖し、出動しなかった。モロッコではシナの戦闘が手本になっている。「部隊近くで種をまいてる農民どもを射殺しろ。性別、年齢は特定するな。死んだ、怪我した反体制派の数のみ公表せよ」との命令が下る。至る所に宣教師と兵士が。至る所にカラスとジャッカルが。それぞれが互いに自分たちの無知をかばい合っている。それでも至る所で反乱が、火の手が、毒殺が。至る所でテロが、陰謀が行なわれているのである。イギリス人、フランス人、オランダ人、イタリア人、スペイン人、大海の諸民族、極東の諸民族よ。東洋の群衆が、あなた方の東洋の、ドイツ、ロシア、中国、あなた方より自由で、より強く、より純真なこれら植民地をもたぬ国々の群衆が、容赦なくあなた方を襲う時、あなた方の逃げ場は、ともかくあなた方の植民地にはないのである。その日、キリスト教国のあらゆる銀行は閉ざされよう。空には始まりの兆しが、精神には苦しみの兆候が現れよう。もはやいかなる言葉も物質に隷属されはしまい。絶対的自由の愛すべきまなざしの下、すべての有色人種たちは完全に自由となろう。
『シュルレアリスム革命』(第3号、1925年4月)

 
 
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« Les travailleurs intellectuels aux côtés du prolétariat
contre la Guerre du Maroc »
1925
 
ところで、シュルレアリストたちが彼らのやり方で関与する最初の大きな闘争、それは反植民地化の闘争である。リフの山岳地帯のスペイン軍を撃破していたアブ=デル=クリムがフランスの国境警備隊を攻撃し勝利を収めたのを受け、1925年、フランス政府はモロッコ戦争に介入する。この時、シュルレアリストたちは結党されたばかりの共産党に近い知識人たちの側に立って異を唱えている。
 

イメージ 1モロッコ戦争(リフ戦争)
1925年4月、フランス領モロッコで起きたアブデル・クリム率いるリフ族の大規模な叛乱。この反植民地運動に対するフランス軍の弾圧は、国内に大きな動揺を惹き起こした。一方では、戦う軍隊に敬意を表した声明「祖国にくみする知識人」がポール・ブールジェ、ヴァレリーなど多数の署名のもとに発表され、他方、批判的立場からは、共産党を中心として「モロッコ戦争反対行動委員会」が組織された。

 
共同宣言
モロッコ戦争に反対してプロレタリアートの側に立つ知識人労働者

われわれは人民の、あらゆる人民の、その彼らが属するある人種に、自決の権利を主張する。われわれはこれら明白な道義を暴力によってか弱き人民に課された略奪の条約の上に位置づける。かつ、われわれはこれら条約が公布された事実が何ら彼らから不公平さを取り去ることがないものと見なす。ここでは抑圧される者たちの意に反して既得権を得ることはできない。公平さの必然より上のいかなる必然性も願うことはできないであろう。
 
共同宣言「モロッコ戦争に反対してプロレタリアートの側に立つ知識人労働者」は、1925年7月2日、『ユマニテ』紙に掲載された。

訳 注
[1] 1925年7月2日、この日はラ・クローズリ・デ・リラでサン=ポール・ルーの祝賀会が開かれている。シュルレアリスムの活動を「男色的」と決めつけたポール・クローデルへの公開状がシュルレアリストたちによって各人のテーブルに配られ、会は大乱闘騒ぎに発展するが、この席上、会食者たちは同時にシュルレアリストたちが同日『ユマニテ』紙に掲載されたアンリ・バルビュスのリフ戦争に反対するこの声明に共同署名したことを知らされたのであった。
 
A VOUS DE LIRE
イメージ 2超現実の時代
ピエール・ナヴィル (著), 家根谷 泰史 (翻訳)
みすず書房 1991年
本書は、極めて早熟かつ批判精神に富み、つねに時代の前衛として現代史を駆け抜けた思想家が、自らの足跡を振り返ったユニークな回想録である。シュールレアリストたちの群像、その理想と現実、ブルトンとの相克、文学とコミュニズムの関係など、興味津々たる現場からの報告・証言に満ちている。シュールレアリスムを中心とした現代芸術・思想を解読する上で必ずリファーされる一冊。
 
 
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ANDRÉ BRETON
Arcane 17
1947
 
イメージ 1
 
 
 
 
 
シュルレアリストたちが歴史を思い描くときに用いるモデルとは何か? 学識ある批評家たちのあまり取り組まない質問であり、何人かのシュルレアリストたちが政治のせめぎ合う世界に身を置く理由となるアンガジュマン(政治参加)の問題として処理されている。事実、ブルトンの側にいた彼らは次々に無政府主義者に近い状態になり、次いでその反植民地思想のゆえに、またその反ファシズムの闘争のゆえに共産党との提携を企てる。一方で(ピエール・ナヴィルやバンジャマン・ペレなど)早くにトロツキズムの流れに接近する者もいて、ブルトンが1930年代の終わりに、とりわけトロツキーの社会における芸術家の役割に関する急進的思想に賛同するのはこれらの見解があってのことである。彼らがヴィシー政権に対して激しく反対するのは明白であり、戦後は絶対自由主義者たちか第四インターナショナル(トロツキズム)に近い。アラゴンと、その数年後に続いたエリュアールに関しては、1930年-1932年から1956年まで、あるいはそれ以降もソヴィエト体制を称賛する留保のない政治参加であった。この時から二人はともにシュルレアリスムとは永久に訣別した。
社会主義の赤旗と無政府主義の黒旗が、若きブルトンの心をとらえた旗章であった。政治参加は彼らにあってはことごとく感情と人間の連帯の感覚につながっているようだ。
 
 
アンドレ・ブルトン
秘法十七
 
記号も標章もきれいさっぱりとない赤旗、それに対しては、私はいつでも十七歳のときにもつことのできた眼をとりもどすだろう。そのとき、前の大戦の接近にあたっての民衆のデモで、その旗がプレ・サン‐ジェルヴェの低い空に何千本もひるがえるのを見たのである。それにしても、その燃え立つ火の海が、ほんのわずかの、またごく限られた場所ではあったが、飛ぶように現われた黒旗によって突破された瞬間のことを思い起すと、私はなおいっそう身ぶるいを――理性ではそれをどうすることもできないと感じられる――覚えつづけることだろう。当時私は、さしたる政治意識をもっていなかった。それに、それが私に結局何をもたらしたかを判断しようとするとき、私がいまも途方に暮れるありさまだということは、はっきり言っておかねばならない。だが、私には、これまでにもまして、この共感と反感との潮流が、もろもろの思想を自分に従わせようとする力を強めているように見える。そして、私は、自分の心臓があの日の出来事のために高鳴って来たこと、これからも高鳴りつづけることを知っている。私の心のもっとも底深い地下道の中に、いつも私は、無敵の火の舌が往き来しながらも、その舌のいくつかは、一本の炭化した傲然たる花をなかなかなめつくせないでいるのを、くりかえし見出すことだろう。新しい世代の人々には、当時のあのような光景を思いえがくことは困難である。プロレタリアート内部でのいかなる種類の分裂も、まだ生じていなかった。パリ・コンミューンの炬火は、消えるどころではなく、数多くの手によってかかげられて、すべてをその偉大な光明で統一していたが、その光明は、いくつかの黒々とした煙の渦をともなっていなかったら、これほどまでには美しくなく、真実味もなかっただろう。個人的利害のないあれほどまでの信頼、人々の顔に読みとれたあれほどまでの決意と熱情、さらにまた、老人たちの顔にみられたあれほどの気高さ。黒旗のまわりでは、たしかに、肉体的憔悴はよりはっきり感じられたが、情熱は、まさしく、いくつかの眼を貫いて、あとに忘れがたい白熱状態をのこしていた。とにかくそれはあたかも、火焔は彼らすべての上を通りすぎたが、ただ彼らの焼かれ方に多い少ないがあり、火焔はある人々の場合にはもっとも理性にかないもっとも根拠のたしかな権利請求と希望とをしかはぐくまなかった一方で、他のもっと数少ない人々を反乱と挑戦との一徹な態度を守ってたちどころに燃えつきるようにしむけたといった具合だった。人間の条件のありようは、この後者の態度こそ、社会がその抑制のため持ち出し得るまったく功利的な理由をぬきにして言えば情緒的な面でもっとも正当化できると、私につねづね思えて来たほどのものが、人間が自ら作り出した徹底的に改善の利く社会的条件とはかかわりなしに存在する。そしてこの態度は知性の歴史において、パスカル、ニーチェ、ストリンドベルヒ、ランボーといった名高い引受人に事欠かないのである。少なくとも、この態度だけが地獄的な偉大さの刻印をうけているということは、心中ひそかに認めざるを得ない。子供のころ、墓地へ連れて行かれるようになってまだはじめのある時――数多い、気も滅入るような、あるいはばかばかしい、墓地のあいだに――「神なく主人なく」という傲然たる銘が赤い大文字で刻んであるだけの一枚の簡素な花崗岩の碑板を発見したことによって私にひきおこされた、心の安らぎや高揚や誇りを、私は決して忘れないだろう。(入沢康夫訳)
 
A VOUS DE LIRE
イメージ 2秘法十七
アンドレ・ブルトン (著), 入沢 康夫 (翻訳)
人文書院 1993年
1944年、パリ解放のさなか、ブルトンはイシス神話や中世の伝説を想像力のバネとして詩を語り、自由を語り、愛を語った。とぎすまされた感性と明晰な論理が織りなす不思議な魅力に満ちた文体のなかで融合する、ブルトン後期の代表的エッセイ。
 

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