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フランスは思うに、自由平等の気ちがい病院というべきで …… これがフランスの短所であり、長所であり、困難であり、幸福である。

書庫若き詩人たちへの手紙

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Philippe Soupault et la naissance du surréalisme

Panorama
30 sept. 1966 | 05min 56s


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スーポー 医学の勉強、それは言い過ぎ。私としては、アンドレ・ブルトンの関心は、とくに詩であったと、思っております。この点、間違いないと思います。

ですが、精神医学には、関心ありました。解剖学や、病理学よりも、はるかに。

で、アンドレの経験のひとつが、シュルレアリスムの歴史においてきわめて重要な役目を果たしましたが、それは、精神医学へのアプローチ。でもあり、気がふれた人たちへのアプローチ、でもあったと、言わせてください。

アンドレは強烈な印象を持っていたのです。

まだ医学生で、まだ兵役についていた頃です。研修のようなものを、サント=ムヌーの病院だったと思いますが、受けました。そこは、気のふれた人たちのいるところ。

強烈な印象を受けました。で、その頃、すでに、アンドレの関心は、いわゆる“狂気”と呼ばれるところに、向けられていたと言えましょう。

けれどもこの狂気。天才にも、詩にも、きわめて類似したところがあるのは、お分かりいただけるかと思います。


――たしかブルトンはフロイトを訪問していたのでは?


スーポー あっ! ずっとあとです。


――あと?


スーポー ええ、ずっとあとです。それに、それもうまくはいかなかったのですよ。


――えっ?!


スーポー フロイトが、真剣に取り合わなかったからです。

アンドレはたいへんフロイトを尊敬しておりました。フロイトの本はすべて読んでいましたし、とくに夢の分析を。

アンドレには、深い、とても深い敬愛がフロイトにあり、フロイトについての知識もあったわけです。フロイトに手紙を書かせ、面会にこぎつけるところまで行きました。

ですが、フロイトはシュルレアリスムを、真に受けなかった。これは、アンドレにとって、たいへん大きな失望でした。


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――シュルレアリスムの誕生の日を明確にするのは、ほとんど不可能なのでは?


スーポー おーっ! できますよ!


――できる? ではそれは、『リテラチュール』誌が、、、


スーポー ああ、ちがいます、ちがいます、ちがいますよ。

では一つ、お話しいたしましょう。

私たち、アラゴン、ブルトン、それに私。『リテラチュール』誌を創刊いたしましたが、ある崇高な思いが、ありました。私たちのやりたかったこと、それは私たち自身と、私たちに影響を与えた人たちとのあいだに、絆を結ぶこと、であったと言えましょう。つまり結果として、ジッドと。ヴァレリーと。ファルグと。マックス・ジャコブと。ピエール・ルヴェルディと。

ですが、明らかに、私たちは行き詰まってしまいました。理由は、私たちが非常に若かったということ。それに、非常に反抗的であったということ。それに、別の方でその当時、ダダ運動の爆発が、始まっていたのです。

で私たち、ダダ運動に飛び込みました。全身全霊であったと、私は言えます。

アンドレは、ダダ運動の渦中にあって、まったく心からの参加でなかったと言う人がありますが、この評はまったく違うと、私は思っております。アンドレは、ダダに、もっとも確信を抱いていた一人であったでしょう。

でもこの確信。唯一、反抗という、激しい欲求だけで、つながるものであったやもしれません。

私たち、きわめて反抗的であったと言う必要があります。マックス・ファヴァルリ〔インタビュアー〕。あなたは若いから、この時代を思い出せないでしょうが、戦争を、賛美する者たちがいたのです。それは国土の文学者たち。バレスに〔ポール・〕ブールジェ。無分別な人たち。

で、どうでしょう。私たち、戦争の犠牲を被ったのです。私たちは戦争を生き抜いたのです。

そして突如としてまた、この連中たちが、でたらめなプロパガンダに乗り出そうといたしました。

この連中を厄介払いにする。私たちにできるただ一つの手段。それは、反抗すること、ご破算にすること、だけだったのです。


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スーポー あまりに忘れられていること。歴史家も、信憑性ある証言者たちでさえ、忘れていること。それは、シュルレアリスムが『磁場』の出版をもってして始まった、ということです。

よく尋ねられました。私もよく聞かれましたし、アンドレもそうです。なぜ私たちが、シュルレアリスムという名前にしたのか、と。

この名前は、アポリネールへのオマージュから、選んでおります。

アポリネールが発表していたテクストに、タイトルは「オニロ=クリティック〔夢判断〕」。アポリネールはこれを「テクスト・シュルレアリスト」と呼んでおりました。

で実際、アポリネールのこのテクストには、私たちのあらゆる関心に、シュルレアリスムのすべての発端に、ランボーにも、ロートレアモンにも、通じるものが、ございました。ですので、このような経緯で、私たち『磁場』を、「テクスト・シュルレアリスト」と名付けております。

ですが、『磁場』。書かれたのは、このすぐ近く、グルネル通り。それに、パンテオン広場ですが、アンドレ・ブルトンと私は、あるメソッドのようなものを、これをメソッドと呼べるかですが、選んでおります。

精神科医たちが、とくに、今日ではほとんど忘れられていますが、偉大な精神科医ピエール・ジャネ、たちが「エクリチュール・オートマティック〔自動記述〕」と名付けたところの、それに、「白日夢」とも言うことのできた、メソッドをです。

ですので、圧力のようなもの、ロートレアモンの、ランボーの、アポリネールの影響に、あと押しされるようなかたちで、私たちは書きましたが、きわめて“自由に”書いたのです。

“自由に”。この点、お忘れになってはいけませんよ。シュルレアリスムとは、つまるところ、“解放”でしかなかったのですから。

なので、シュルレアリスムの誕生は、1919年、と言えるのでは。つまり、アポリネールの死から、ほどなく。

そして、私が申し上げたいのは、アンドレ・ブルトンと私。私たちの決定は、この本を15日間で、15日間というのは、あらゆる批評的、伝統的コントロールから離れて、自由に書くスピードが課題であったからですが、書きました。そして、私たち自身、その結果に、驚愕したのです。

驚愕するとともに、私たちの書いたテクストには、笑ってしまう、個所もありました。私がよく覚えているのは、驚ろくとともに、しばし、笑い合ったということです。

この点、アンドレ・ブルトンの笑いについて、ぜひお話しさせておいてください。

アンドレ・ブルトンというと、重々しい、生真面目な男で、“法王”と呼ばれたり、これらアンドレを、ずいぶんうんざりさせましたし、これらブルトン評は、間違いです。

ブルトンの笑いは、子供の笑い。ですが、ニワトリが鳴くような仕方で強く、笑いました。なかなかない、笑い方です。


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Philippe Soupault décrit Breton

イメージ 1Panorama
30 sept. 1966 | 02min 09s




アンドレ・ブルトンとの出会いは、1917年。私たち二人、ともに19歳でして、それにまた、第一次大戦中でもありました。で、私たちの出会いは、ある一人の大詩人が見守るなかで、ブルトンも私も敬愛した、ギヨーム・アポリネール。戦場で負傷し、頭部の手術を受けていました。で、ほとんどその病院のベッドの前です。アポリネールが私に言いました。「君に、詩人アンドレ・ブルトンを紹介するよ」。で、私も詩人として、紹介されました。で、この瞬間から、明らかに、何かしら、ユニークなところが、人生に生じました。これは、すぐ、でして、互いに、打ち解けて、近いものがあると感じた、ものです。なぜなら、いいと思うものが同じ、憎むべきものもまた同じ、でしたから。そして、それからはずっと一緒でした。

私がお話しすべきは、その当時のアンドレ・ブルトン、極端なまで、厳格な男でした。すばらしくいい詩を書いていて、私などもずいぶん心動かされましたが、ブルトンは、マラルメの影響下にあったのでした。この点、ブルトンのマラルメに対する、深い敬愛といったものを説明できますが、その奇妙な交友を、マラルメとは正反対の人物との交友を、説明できます。つまり、極端なまで、厳格なところがほとんどなかった人物、ポール・ヴァレリー。二人はずいぶん手紙をやり取りいたしました。ポール・ヴァレリーはブルトンを、絶賛しておりましたし、ブルトンもまたヴァレリーを。しかし、突如として、アポリネールとの出会いが、ピエール・ルヴェルディとの出会いが、それに、自惚れを承知の上で申し上げます、私との出会いが、ブルトンを、進化、変化させました。そうしてマラルメ的詩風から、ブルトンがたどり着くのは、解放ともいうべき、ここ50年の、詩の歴史そのものでありましょう。けた外れの、50年間です。


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Tristan Tzara

イメージ 1En Français dans le texte
01 janv. 1961 | 10min 28s

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“『フランス語で』〔番組名〕、一の一。”


――トリスタン・ツァラ。半世紀近く前から、あなたの名前や活動は、思想や、非同調的なアートに関心あるすべての人々のあいだで、有名です。あなたはご自身を、シュルレアリスム運動のプロモーター、ないしはプロモーターの一人であると、お考えでしょうか?


ツァラ “プロモーター”とは、大げさな言い方。まあ、ダダは、シュルレアリスムの形成に、また、思想の次元においても、詩の、芸術の次元においても、多大なる重要性があったと、一般に、申せましょう。とはいえ、“プロモーター”と申しますと、ダダ同様、シュルレアリスムにも、多くのプロモーターがおりました。つまり、近い考えを、のちに展開されることになる考えを、持った人物が、おりました。たとえばアポリネール。たとえばピカソ。さらにさかのぼりますと、たとえばジャリが、サン=ポル・ルーが、ロートレアモンが。まあ、あなたもよくご存知、彼ら3名はダダイズムの、同時にシュルレアリスムの、先駆者。


――ダダイズム、またはダダ運動とは何であったか、お話し下さい。


“カット。”


“『フランス語で』、三の五。”


――ダダ運動とはいったい何だったのでしょう?


ツァラ ダダは反抗の運動、ひとつの「精神状態」。あらゆる思春期の若者に固有の反抗に、とりわけ、われわれ世代の反抗に、呼応するものでした。


――ええ、ですが、戦争を知る若者たち、でした。第一次大戦後、すぐでした。


ツァラ 戦中です。


――ええ、戦中。


ツァラ ダダはスイスで、1916年に生まれました。私としては、まだ20歳にすぎず、で、私たち全員が、アルプ、バル、ら、運動に参加していた全員が、この時期の、あらゆる間違った価値観に、偽りの倫理、道徳に、偽物の芸術、大文字の芸術に、反抗していました。


――つまり単なる芸術運動、美術運動、文学の一派、ではなかったと?


ツァラ ダダの表現手段は、しかし、アーティスティックかつ文学的なものでした。が、われわれは望んではいませんでした。運動が、用語のクラシックな意味合いで、文学の一派になることを。


――なぜ「ダダ」という言葉を?


ツァラ ダダは偶然、辞書の中から選ばれました。まさに「何も意味しない」ためであり、いかなるドグマティズムにも、われわれが束縛されないためでした。


――型にはまった言語表現への嫌悪感を出すためにも?


ツァラ それに、もちろんそうです。それにまた、すでに名のある、あらゆる芸術の流派が、ある種の意志で、あらかじめ決められた意味に向かって進む、からでした。その方向性に、芸術の、文学の主要目的、人間を、あらゆる種類の関心事の中心に据える目的が、隠れてしまっていたからでした。


――ゆえにダダは、イニシアティブある個人の集まりでした。めいめいが、ダダ運動の中にあって、きわめて自由でした。


ツァラ ええ! われわれが固執したところ、ダダはドグマ的でない、というところです。


――あなた方に共通してあったのは、大きな反抗心だけ、でした?


ツァラ おっしゃる通り。その反抗心は、各自にあって、違ったやり方で、表現されていました。それでも、全員が、同じ方向を向いていました。方向は、人間の、個人の自由を手に入れるため、芸術の様式を出る、ことでした。


――ゆえにシュルレアリスム運動は、ダダ運動のまさに後に、誕生した。


ツァラ ええ。ダダの誕生は1916年のチューリッヒなので。


――シュルレアリスムは?


ツァラ 1924年のパリ。1920年に私はパリにやって来ました。ダダはパリで、とても大きな反響がありました。


――ダダはパリのムーブメントになりました。


ツァラ ええ。大いに、大きなスキャンダルを引き起こしました。それに、スキャンダルの歴史は、ダダによって区切られると、言われます。


――今日、あなたはもはや、文学の、美術の次元で、スキャンダルは無理だ、とお考えですか?


ツァラ もはや時代に逆行すること〔世の流れや進歩に逆らうこと〕でしか、スキャンダルは無理です。


――たとえば?


ツァラ たとえば、ダリのように。スキャンダルを起こすには、ローマ法王に会いに行くのです。


――すると、あなたは極度に、極端な伝統主義〔保守反動〕でなければ、スキャンダルは無理だと考える?


ツァラ ええ! でも、まだまだ、まだまだ(笑)〔極端な伝統主義であったとしても、スキャンダルはそう容易にはいかない〕


――(笑) ところで、その時期、1920年、あなたのパリ到着、あなたが出会うのは、エリュアール、アラゴン、ブルトン、といった人たちです。


ツァラ ええ。彼ら全員、私の友人、私の大親友。ブルトン、アラゴン、スーポー、が、すでに雑誌『ダダ』に、寄稿していました。1918年から。


――その時期、彼ら全員が、ダダ運動に?


ツァラ ええ、そうです。ピカビアも、リブモン=デセーニュも、他にも数人。


――そうして、シュルレアリスム運動が、あなたの友人の何人かとともに、誕生する。


ツァラ いいえ。やはり過去を、さかのぼらなければ。『文学』誌、ブルトン、スーポー、アラゴンが、1919年から編集した雑誌が、パリにおける、ダダの中枢だったのです。彼らはダダに、全面的に賛同していました。で、1922年になって初めて、重要な決裂が、あったのです。なぜならその時、パリで、現代芸術の潮流を定義する、会議が招集されたのです。ところがダダは、自身を現代の運動とは、見なしておりません。唯一、ブルトンとアラゴンが、この会議の擁護者でした。それに対して、反対したのが、エリュアール、バンジャマン・ペレ、リブモン=デセーニュ、スーポー、私自身、他にも多く。


――ゆえに、反抗を、美術の次元に移行させるべきと考える一派と、一方で、反抗を、純粋な状態で維持しようと考える一派がいた?


ツァラ ええ、もしそう言えるなら。


――そうして、それから、シュルレアリスムに、ブルトン、エリュアール、ペレ、知られるところの全員が結集すると、シュルレアリスムとあなたのあいだで、決裂がありました。


ツァラ ええ。1922年、22年か23年から、決裂がありました。


――なぜです?


ツァラ それはまさに私が、シュルレアリスム運動が、すでに当時、形を成してきており、姿を現すのは1924年になってからですが、ドグマ的、かつ体系的になると、思えなかったからです。


――それからあなたと関係を絶たせる、政治的理由がありました。


ツァラ 後です。後です。その時期に関して言えるのは、ダダのある種の体系化、についてだけです。


――なぜ今日、シュルレアリストたち、ないし、そこにとどまる者たち、なぜあなたを憎むのでしょう?


ツァラ おっ! それは、言うに、難しい(微苦笑) おそらく、彼らが私を、彼らに非常に近いと思っているからでしょうし、私が彼らの、シュルレアリストたちの意見に、与しないからでしょう。が、昔からのグループにはもうブルトンしかいません。


――もちろんです。


ツァラ 他の人たち、若者たち、私は彼らを知りませんし、彼らの活動も知りません。なので、言えないでしょう。


――けれども戦争の直前、まあそれより前か、シュルレアリストたちが共産党に入党するという、一時期がありました。


ツァラ ええ。私は、再び、行動の自由を維持しつつも、シュルレアリスムのグループに、賛同しました。1929年のことで、1935年まで、グループにいました。私は自ら、グループを離れましたが、理由は、政治的なものだったと、言えるでしょう。私たち、クルヴェルと私、シュルレアリスムのグループを去りました、が、理由は、ここであなたに説明するのは、とても難しい。ですが、政治的影響が、多く働いたのは、疑いない。時代が、AEAR、革命的作家芸術家協会〔ヴァイヤン=クーチュリエによって1932年に設立された共産党系組織〕が、できる時代。極端に活気ある、激動の時代であったと、申さねばなりません。というも、初めて、作家たち、芸術家たちが、深く、政治問題に、時事問題に、関心を抱き、取り組んだ、時代だったのですから。


――そうですが、すでにそれは、アンガジュマン〔作家・知識人の社会参加、政治参加〕?


ツァラ アンガジュマン、ええ。まさに、つまりは。


――あなたはこのアンガジュマンにいた?


ツァラ 私のアンガジュマンは、スペイン内戦後。内戦が、大きく私を、決定づけました。で、レジスタンス期も、私の行動は、同じ。


――今日、あなたは、シュルレアリスムは時代遅れ、と思われますか?


ツァラ 時代遅れかどうか、分かりませんが、いずれにせよ、今日的でない。


――シュルレアリスムが、現代人の生活に適応されない。社会の、政治の、道徳・倫理の、哲学の、学問の、状況・状態に適応されないのは、なぜだと思われますか?


ツァラ シュルレアリスムは真の必要に、それらの領域で応えましたが、それも戦争の初めまで、と申せましょう。状況が、あまりにも変わってしまいました。


――世の中、変わった?


ツァラ 世の中、変わった。けれど、シュルレアリストは変わらなかった。で、私は思うのですが、グループというもの、いつの時代も、歴史的に、社会的に、運動を動かすものであります。シュルレアリスムの影響が、生きていようがいまいが、生きているのは疑いの余地ありませんが、われわれは、ロマン主義の影響を、まだあるものとして、話すこともできましょう。けれども、ロマン主義のグループ、われわれは今日、その可能性を、思いつけません。


――あなたは新しい運動が、同じ次元の反抗の運動が、生まれるのを目撃されていますか?


ツァラ いいえ。私は、シュルレアリスムのとても大きな影響を、まだ、今日の詩人たち、画家たちに、目撃しますが、運動が生まれるには、私たちの生活状況もまた、変わらねばならないでしょう。私たちのいる今は、不確かで、何かが生まれるのを待っている時間で、今われわれにできるのは、待つことだけです。で、私は、若い人たちの運動がやって来るのを、実に望んでおります。そこにわれわれが、一丸となって結集する。私たちが、私たちの先駆者たちと、結合したように。


――この世界はそれでも、開かれている、との印象をお持ちではありませんか? ファンタスティックなものに開かれた扉が、この世界には無数にある。だが、不思議なことに、この世界には入口があまたあるのに、哲学の、芸術の、文学の、運動が生まれない。


ツァラ ええ。科学〔進歩〕が、芸術運動よりも先にある、のは事実です。


――ええ。詩は、数学か物理学に、逃げ込んでしまったかのようです。


ツァラ ええ(微苦笑)


――けれどもあなたは、あなたの周囲に、何も目撃されないのでしょうか? 若い人たち、間違いなく、あなたを訪ねる、あなたの周囲にいる、あなたに手紙を書く人たちに、何かが生まれるのを、何も目撃されない?


ツァラ 私は多くの才能に出会います。私は、物事を、いとも簡単にこなす能力に出会います。私は、並外れの頭のよさ、際立つ知識量ある人たちに、出会います。けれども、まさに私を驚かせるもの、私はまだです。ええ、私はまだ出会っておりません。まさに、私の待つところ、です。


――あなたを驚かすところを?


ツァラ 私を驚かすところを(微笑)


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トリスタン・ツァラ Tristan Tzara 1896.04.16〜1963.12.25

1896年ルーマニアのモイネシュティに生まれ、1963年にパリで死んだ。詩人だが、彼の名は概してダダ運動そのもと同一視される。事実、16年チューリヒでダダを創始し、そのもっとも活潑な指導者となった。20年、パリにあらわれて「文学」誌のグループとまじわる。この雑誌運動の延長であるシュルレアリスムからは最初はなれた位置にいたが、28年に参加。だがのちにふたたび離脱して共産党に入党、抵抗運動にも加わった。その光彩陸離たる作品群はこんにち再評価されつつある。

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Tristan Tzara à propos du mouvement Dada

イメージ 1L'art et les hommes
16 sept. 1963 | 02min 10s


ホテル・イストリア
カンパーニュ=プルミエール通り29番地

Hôtel Istria
29 rue Campagne-Première




Hotel Istria, dans le 14e arrondissement de paris, SITE OFFICIEL
www.hotel-istria-paris.com/



すべてが過ぎ行くうちにも、伝達するのは心の声であるかのように、大戦に端を発した二つの革命のメッセージが、モンパルナスに届きつつありました。

1914年から18年にかけての第一次世界大戦。

ロシア革命。それに、よりいっそう直接的であったダダ革命。

ヴェルダンでは何百万もの兵士が死と直面するさ中、トリスタン・ツァラなる一青年が投げつけたのは、“思想の爆弾”なるものでした。


ツァラ まあ、ご存じ、ダダはスイスで、1916年に生まれました。

ピカビアがその時期やって来て、ダダの一員に。

リブモン=デセーニュもこれに加入。

そして、ブルトン、スーポー、アラゴンの作る『文学』誌のグループが、このダダ運動に賛同しました。

そこにほどなく、エリュアールが合流。


――計画は何だったのですか?


ツァラ ダダの計画は、世間一般に考えられているところ、破壊、とは反対に、新しい価値観を生み出すこと、既存の価値観をくつがえすこと、でした。

そのためには明らかに、価値観をくつがえすためにも、世間一般に流通する、少なくもアカデミックな価値観を、破壊する、必要がありました。

それがため、ダダの評判は、破壊の運動であると、定着。

破壊こそがまさに、破壊だけがダダ運動であると、思われているのは、残念なことです。

もし、まず存在するものを破壊しなければ、建設はできません。明瞭なことです。



Francis Picabia. Tableau Rastadadaz. 1920. Cut-and-pasted printed paper on paper with ink, 7 1/2 x 6 3/4" (19 x 17.1 cm). Gift of Abby Aldrich Rockefeller (by exchange). © 2016 Artists Rights Society (ARS), New York/ADAGP, Paris


ツァラ ダダはもちろん、モンパルナスを舞台に、特定的に、特別に行われたものではありません。

イベント全体が、よその場所でも行われたのですから。


――モンパルナスでもダダは話題だったと思うのですが?


ツァラ ええ、大いに話題になりました。

モンパルナスは、先程お話ししたように、出会いの場所であり、間近に住む人たちにとっては、滞在地でもありました。

少し後ですが、マン・レイとクルヴェル、他に数人。私たちはカンパーニュ=プルミエール通りのホテル〔29番地、ホテル・イストリア〕に住んだのです。

ほとんどホテル全体が友人たちに住まれていました。

さあ、その頃はまさに、美しい人生。友情に包まれた。

ホテルは私たちの、一軒の非常に大きなアパートのようで、私たち全員が住んでいました。


――ファランステール?


ツァラ まあ、そう申せるのなら。



トリスタン・ツァラ Tristan Tzara 1896.04.16〜1963.12.25

1896年ルーマニアのモイネシュティに生まれ、1963年にパリで死んだ。詩人だが、彼の名は概してダダ運動そのもと同一視される。事実、16年チューリヒでダダを創始し、そのもっとも活潑な指導者となった。20年、パリにあらわれて「文学」誌のグループとまじわる。この雑誌運動の延長であるシュルレアリスムからは最初はなれた位置にいたが、28年に参加。だがのちにふたたび離脱して共産党に入党、抵抗運動にも加わった。その光彩陸離たる作品群はこんにち再評価されつつある。

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Philippe Soupault parle du Montparnasse des années 20

イメージ 1L'art et les hommes - LES HEURES CHAUDES DE MONTPARNASSE
16 sept. 1963 | 01min 08s



おなじように、1919年のこと、スーポーは何軒もの見当ちがいな建物にはいってゆき、管理人に、フィリップ・スーポーさんのおすまいはこちらでしょうか、とたずねまわったものである。思うに、そうですという返事がかえってきたとしても、彼はおどろかなかっただろう。そのまま自分のすまいのドアをノックしにいったことだろう。

(アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』1924年)



――フィリップ・スーポー。思い出を、ほとんど幻影のようなものを追い求めているうち、またしても、あなたには、なじみの場所で、再会です。


スーポー おお! いかにも、モンパルナスは、わたしたちにとって、一つの時代、のみならず、並ならぬ、出会いの場所でもありました。

なぜなら、いいですか? モンパルナスの境を越えるたび、わたしたちは、たちまち、自由を吸い込んでいるかのような心地がしたのです。


――さきほどは、風俗の自由についてお話しくださいました。この点はもう少し強調すべきかもしれない、そう思えるのです。なぜなら、それがまさに、事実上、第一世界大戦後であったからです。


スーポー まさに、第一次世界大戦後でした。それにまさに、、、


――時代背景とも少し関連しているかもしれない?


スーポー ええ! もちろんですよ。爆発がありました。1914年から1918年にかけての、おぞましい戦争の後に。

誰もが、完全に、自由になりたいと感じました。

で、当時でさえ、風俗の面からして、並並ならぬものがありました。

わたしが言えるのは、少年たち同様、少女たちも、断じて、どんな偏見からも自由だったのです。

これは、全く通常とは異なるものでした。雰囲気として。

だが、見せびらかすようなところがなかった。とても自然でした。

これこそあった、すばらしいものです。これはナチュラル、、、

モンパルナスは極度にシンプルな場所でした。

ここでは誰もが断じて、自由に! 完全に! 生きていました。



フィリップ・スーポー Philippe Soupault 1897.08.02〜1990.03.12

1897年セーヌ・エ・オワーズのシャヴィルに生まれ、パリでくらす。大ブルジョワ家庭出身の詩人、作家。「文学」誌同人とともにパリのダダ運動に参加し、ついで初期シュルレアリスム運動の一員となったが、1929年に除名され、小説家、旅行家、ジャーナリストとして多彩な後半生をおくる。アンドレ・ブルトンとの共作で、「オートマティック」な最初の作品『磁場』(20年)を書いたことは忘れられない。長命だったせいかさまざまな回想記をのこし、90年に没。

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