|
ほとんど題名に惹かれて小学生か中学生の頃に「ディファニーで朝食を」を読んだことがあって、アメリカの都市の乾いた何気ない、もしくは何もない日常の軽い切なさを程よく楽しんだ気がする。映画も見たけど記憶に残る程のものでもなかった。 たぶんその本の解説には作者カポーティの簡単な紹介があって、その後アメリカ・ノンフィクション小説の嚆矢となる「冷血」を書き上げ評価を不動のものにする云々と書いてあって「へ〜」と思いながらも、いつも本屋で厚い文庫本を見るたびにスルーしてた。 そしてこの映画。約20年ぶりのカポーティとの再会。 NY社交界の話題の中心として君臨した映画で描かれたカポーティは、蔑称としての「俗物」という言葉が相応しい人物。主演フィリップ・シーモア・ホフマンによる本人酷似と謳われる名演もあってか、鼻につく異常に高いトーンと気取ったイントネーションでバカ話と自慢話でセレブたちを爆笑させパーティに耽る、カポーティのイヤな奴さ加減は秀逸。 それだけにひとり部屋のベッドのなかやゲイのパートナーの前で時折みせる生気のなさ、子どもの女の子のように寂しげで甘えた表情が、彼の根本的な孤独さを際立たせる。 1959年11月15日、カンザス州の田舎町ホルカム。畑に囲まれた一軒の屋敷でライフル銃による家族4人惨殺事件が起きる。犯人は不明。新聞記事で事件に興味をもったカポーティは早速幼なじみで作家のネル・ハーパー・リーとともに現地へ赴き調査をはじめる。やがて犯人は捕まり拘置、収監される。カポーティは二人組の犯人のうち特にペリー・スミスに関心をもち足繁く彼の元へ通い寄り添いながらスミスの事件までの半生を聞き調べていく。 最初から事件とスミスという人間を自分の新しい本のネタにしようとしたことはいうまでも無い。しかし同時に最初からそれだけでなかったことも明白で、凄惨な事件とはいえ何故わざわざ田舎町まで出向いて行って彼は調査しようとしたのだろうか? 監獄ではスミスと優しく触れ合いながらも事件をもとにした新しい小説「冷血」出版準備に入念で、NYに戻っては相変わらず社交界でパーティに耽溺するカポーティ。一方スミスはカポーティに心を開きつつも、自身の死刑宣告を延期してもらうためうまくカポーティを利用しようともする。 しかし長く言葉と心を重ねるうちに打算的な自分と他人の関係の線引きは曖昧になり、二人とも相手のなかに自分を見て、自分のなかに相手をも見るようになる。それは「心が通い合う」というような甘美なものではなく、各々自分で自分がコントロールできなくなる、他者が自己を支配してしまうような徹底的に孤独な状態。 死刑執行の決定も延期もカポーティを沈痛な状態に陥れるようになる。自分自身いったい何を望んでいるのか、自分の欲望が何処にあるのか分からなくなってしまう。。。 ドラマティクな展開もなくほとんど二人の静かなやりとりが延々続きただ淡々と映像は流れ去る。なのに終始鳥肌と妙な緊張感、涙がこぼれ落ちそうな状態が持続する。 そこでは格段に悲しいエピソードが語れるというわけではない。ただ静かに続く二人の会話から漏れる彼らが歩んできた小さく哀しい出来事が無数に重ねられた時間の厚みがわたしを暗闇のなかで圧倒しているからだと思う。 ホフマン演じるカポーティを見ていたら、むかし映画『バスキア』に出てきたD.ボウイ演じるA. ウォーホールを思い出した。あの映画のウォーホールも時代の寵児でありながら色白とした顔と細い声、刹那的な毎日が何処となく生気に欠け寂しい雰囲気だった。 二人とも貧しい白人家庭で母親一人に育てられ(カポーティは一時期母親に棄てられ親戚の家を転々とした)成人してNYに出てきて成功しハイソのスターになっていく。そして外見上奇妙であり才能もあったからこそ時代の寵児であり同時に常にアウトサイダーだった。 カポーティがスミスについて語る「一緒に育ったが、ある日彼は家の裏口から出て行って、わたしは表玄関から出た」という言葉は、カポーティ自身のことであり、映画を見ているわたしたちのことでもあるような気がする。
こんな解釈はとても素朴で単純だ。だけど素朴で単純と思えてしまうことがとても怖い。 そんな単純な事実を確認する白々とした哀しい2時間だった。 |

- >
- エンターテインメント
- >
- 映画
- >
- 映画レビュー






