昨日は仕事関係の資料を購入するため、久しぶりに都内へ出かけた。
その帰り道に立ち寄ったのが「台東区上野」・・・・・
少し時間があったので、昼食を摂りがてら上野公園を散策する。
平日ではあるが、「上野動物園」へ遠足に来たのであろう小さな子ども達や若いカップル、外国人観光客などが大勢訪れていて賑やかだった。
サラリーマン時代は都内の方々を営業で歩いていたので東京都内はほとんど知っているが、幼い頃に母に連れられ弟と動物園や博物館などによく足を運んだことから、都内でも上野という街は最も馴染み深さを感じる。
爽やかな秋風が吹き、多くの人たちが笑顔で佇む上野公園も今から147年前の「慶応4年5月15日」に「薩摩藩」、「長州藩」を中心とする「新政府軍」と「旧幕府軍」の「彰義隊」が激突し、260人以上の戦死者を出してその遺体が累々と横とたわる「地獄絵図」となった。
これが所謂「戊辰戦争」のひとつ「上野戦争」だった。
「上野戦争」に関しては昔参加していた「歴史サークル」で、その痕跡と縁の場所を訪ねたことがあり、100枚近く写真を撮したのだが、どういうわけか「フィルムカメラ」で撮した写真のプリントもネガもどこかに紛れてしまい、スキャニングしてブログに掲載することもできないので、改めて僅かに残る「上野戦争」の痕跡をデジカメに収めてきた。
まずは、多くの人が待ち合わせで使う「西郷隆盛像」のすぐ裏手に「彰義隊の墓」が現在でもひっそりと残されている。
まさにこの場所で147年前に血で血を洗う戦が展開され、新政府軍の猛攻撃を受けた彰義隊は僅か半日で壊滅した。
当時の戦を伝える資料などを読むと、その目撃談として彰義隊士の遺体が累々と横たわり、とくに激戦となった「黒門」の周辺は真っ赤な血の海に染まったとされている。
戦火に巻き込まれた「寛永寺」は本堂が消失したが、「本坊表門」だけは奇跡的に焼け残り、その後に「帝国博物館」の門として使われ、現在は「彰義隊の墓」から数百メートル離れた「輪王殿」の表門として国の重要文化財に指定され移築保存されている。
とくに興味深いのが門の扉に残された弾痕で、「エンフィールド銃」などの小銃のものと思しき小さな穴と、大砲の「アームストロング砲」で撃たれた砲弾が貫通したのであろう大きな孔が確認できる。
(小銃で撃たれたものと思われる弾痕・・・・エンフィールド銃によるものか・・・・)
(アームストロング砲などの大砲で撃たれ貫通したと思われる大きな孔・・・・)
たまたま「輪王殿」の草刈をしていた作業員の方がおられたので話しを聞いたら、今から3年ほど前に瓦の葺き替えと門全体の塗替えなどの改修工事を施したとのことだった。
とりあえず弾痕が残る「輪王殿」を後にし、車で10分程度走った「西日暮里」にある「経王寺」へ移動。
ここも「上野戦争」の痕跡が残る寺として「知る人ぞ知る・・・」場所なのだ。
「彰義隊遺聞(森まゆみ著・新潮社)」という本によれば、新政府軍の兵隊に追われた彰義隊士がこの寺に逃げ込み、内から門を締めたところを銃で撃たれ、やがて斬り合いになって彰義隊士数人が斬り殺されたということだ。
さらに明治の中頃、経王寺の敷地を分割して「啓運寺」という寺を建てようとしたところ、地中から武士の骨が多く出土し、地元の人の話では塀際まで追い詰められた彰義隊士が「もはやこれまで・・・」と観念して自決し、その隊士の遺骨ではないか・・とのことである。
「輪王寺」の表門と同様、「経王寺」の山門に残る当時の弾痕。
官軍の突入を必死に食い止めようとした若い彰義隊士たちはどのような気持ちでこの門の扉を押さえたのだろうか・・・・
さらに「経王寺」から車を走らせること10分・・・・今度は「千住」にある「円通寺」という寺へ向かう。
「円通寺を語らずして上野戦争を語るべからず・・・」と言われるほど、上野戦争とは切っても切れないのがこの「円通寺」なのだ。
・・・・・・・というのは、戦が終わり累々と横たわる多くの戦死者の中で、官軍の遺体は速やかに片付けられたが、彰義隊士たちの遺体は賊軍のものとして見せしめのために放置された。
これを見かねた円通寺の住職「大禅仏磨和尚」が「侠客」の「三河屋幸三郎」と上野の山で遺体を荼毘に付すことを申し出て許され、遺骨を円通寺ないの墓地に埋葬した。
それが縁となり、最も激しい戦いが行われた場所に建っていた「黒門」を下賜され、寺の敷地内へ移築。
現在でも当時の状態を留めた姿で保存されている。
とにかく凄まじいのは数え切れないほどの弾痕が門のいたるところに残っていることだ。
無数に残る弾痕は当時の戦いの激しさを今に十分に伝えるものだが、実銃を撃つ自分として「あれっ?」と思うことがあった。
それは弾痕をよく見ると明らかに口径が異なる銃で撃たれていることが解るのだ。
通説では「上野戦争」ではほとんどが「エンフィールド銃」が使用され、可能性として僅かながら「スナイドル銃」が使用されたのではないかということになっている。
先のブログでも綴ったように、「箱館戦争(当時は函館と書かなかった・・・)」で使用され、出土した「弾」を実際に見てきたが、「エンフィールド銃」に使われる弾は大人の親指大ほどの大きさで、現在の「レミントン・カッパー・サボット弾頭」に近いものだ。
(エンフィールド銃)
(当時は椎の実弾と呼ばれたほど弾頭は大きい)
ところが・・・・近寄ってよく見ると「黒門」には「エンフィールド弾」と思われる大きな弾痕のほかに、現在の「338口径」程度もしくはそれより少し大きいものもあり、「エンフィールド銃」以外の銃で撃たれたことを物語っている弾痕も多数ある・・・いや小さい弾痕のほうが実際には多い。
・・・・・ということは、「リムファイア方式」の「スペンサー銃」か「エンフィールド銃」の改造型「スナイドル銃」が多用されたのではないだろうか・・・・・
門に残されている貫通痕を見ても非常にキレイだし、弾を拡張させ旋状をライフリングに食い込ませて発射する「エンフィールド銃」ではここまでキレイな貫通痕はできないのではと思うのだが・・・(勝手な想像)
どちらにしても興味津々・・・・これでまた研究課題が増えてしまった。
「黒門」の裏手には「彰義隊士」たちを合同埋葬した墓地があり、花が手向けられていた。
147年の時を経て、「上野戦争」で亡くなった多くの「彰義隊士」が、ここで安らかに眠っている。
「円通寺」といえばどうしても「彰義隊」と「黒門」に話題が集中するが、この寺にはもう一つ悲しい記憶がある。
それは、昭和38年3月31日、台東区入谷町に住んでいた「村越吉展ちゃん(当時4歳)」が自宅目の前の公園へ遊びに行くと家を出たまま忽然と姿を消した。
その後、自宅へ「身代金」を要求する電話が何度か掛かってくる。
「東北訛り」があるその声を警察が録音し、ラジオやテレビで一斉に公開して情報を募った結果、寄せられた情報の中に「福島県出身」で時計の修理工をしていた「小原保」という男に声が酷似ているというものがあった。
「警視庁捜査一課」は小原の身辺を徹底的に洗い、別の事件で収監されている小原の身柄を別件で「東京拘置所」まで送致して取り調べを開始。
ところが小原はのらりくらりの返答をするばかりで取り調べは進展せず、人権保護団体などから「別件の取り調べは人権侵害にあたる」などの抗議を受けるようになる。
拘留期限が迫る中、取り調べにあたった「落としの八兵衛」こと、捜査一課の名刑事「平塚八兵衛刑事」が「もし息子が間違ったことをしたなら、真人間になるよう伝えて下さい・・・」と言いながら土下座する姿を小原の前でやってみせ、小原をついに自供させた。
小原の自供どおり、事件から2年半になろうとする昭和40年7月5日に吉展ちゃんの遺体が発見される。
その後の裁判で昭和42年に「死刑」が確定し、同46年「宮城刑務所」において刑が執行された。
小原は吉展ちゃんを殺害したあとこの「円通寺」の墓地に遺体を埋めたのだった。
そんな吉展ちゃんの霊を供養するために今も「吉展地蔵」がひっそりと建てられている。
(幼くして殺害された村越吉展ちゃんの御霊を供養する「吉展地蔵」)
なんだかんだと用事が入りなかなか撃ちに行けない「大口径ライフル」だが、来週は行く予定。