「小湊鉄道」の「上総鶴舞駅」は「日本の駅100選」にも認定され、古き良き時代の雰囲気を残すノスタルジックな駅舎と田園地帯に敷かれた鉄路の景色は非常に人気が高く、ドラマや映画のロケやテレビコマーシャルにも使われ、休日ともなると鉄道ファンのみならず多くの若者たちが訪れてその景色をカメラに収めている。
しかし、駅を訪れる多くの人たちも十数分歩いたところに熾烈な戦いがあり多量の血が流された「戦国時代の城跡」が残っていることを知る人はほとんどいない。
その城の名は「池和田城」・・・・・
この城は房州の戦国武将「里見義弘」の家臣で、「第二次国府台合戦」で討ち死にした「多賀越中守高明」の居城であった。
高明戦死後、嫡男の「蔵人」及びその弟「兵衛」の兄弟が守っていたが、永禄7年(1564年)に「小田原北条4代当主・北条氏政」率いる1万人の兵たちに攻め込まれ、「蔵人」「兵衛」兄弟の他、城兵たちが奮戦し必死で城を守ろうとするも、「北条」側に密通した内応者が城内におり、「多賀兄弟」と城兵はついに力尽きて自らの手で火を放ち城は落城した。
「蔵人」「兵衛」兄弟、そして蔵人の妻たちは城を脱出したが逃げきれず自刃という・・・・
但し、この言い伝いにも諸説あり、「房総軍記」などによれば、その後「多賀兄弟」はこの城を奪還したという説もある。
その後、「内藤大和守」という戦国武将が「池和田城」を引き継いだものの、天正18年(1590年)「豊臣秀吉」による「小田原征伐」の一環で「浅野長政」率いる軍勢の攻撃にさらされ、「池和田城」の命は消えた。
この城のことは以前から知ってはいたが、実際に訪れたのは3年前の冬だった。
城跡といっても鬱蒼とした木々と藪に埋もれ、市原市によって建てられた「池和田城跡」と書かれた棒杭がなければおそらく発見することも困難である。
よって城の全体像が描かれた「鳥瞰図」を「余湖くんのホームページページ」から拝借することにした。
規模的にはそれほど大きくなく「小城」の感は拭えないが、「勝浦街道」に面した要害はかなり急峻な守りで固められており、「北条氏政」による城攻めの際、北条側にも多くの犠牲者が出たというのも頷ける。
城跡に入る道はいくつかあるようだが、先に書いたように周囲が藪に覆われているか周辺の民家の庭先を通っていかなければならないため、「案内杭」の横にある細い坂道を登っていく。
3年前に訪れた時もそうだったが、城内に通ずるこの小道は常にぬかるんでいて乾くことがない。
・・・・・というのは・・・・
登りきる中間あたりに水が湧いているところがあり、文字の消えかけた案内板には「古井戸」と書かれている。
遥か昔、城に住む多賀氏の家族や城兵たちもこの「古井戸」で水を汲み生活用水として使ったそうだ。
それにしても400年以上も枯れることなく水が湧き出ているのだからすごい。
ぬかるむ道に足を取られそうになりながらさらに上へ進んでいくと、左手側に「本丸跡」と書かれた古い案内板が目に入る。
拝借した「鳥瞰図」で見ると「1郭」にあたる部分で、ここに多賀氏をはじめとする人たちの生活の館があったとおもわれるが、藪に覆われ大きさ等は判らない状態だ。
「本丸」の横を通り過ぎると開けた場所に出る。
3年前に訪れとき、この場所で近くに住む地元の方とお会いすることができ、いろいろお話を伺うと月に1回程度、地元の有志が集まり、城跡内の掃除や草を刈るボランティア活動をされているとのことだった。
我々はただ訪れるだけだが、こういう方々がおられるから気持ちよく探索できるのであり、ゴミを投げ捨てるなんてとんでもない話しである。
今回も心無い人によって「空き缶」が投げ捨てられていたので、持参したコンビニ袋に入れて持ち帰った。
「1郭」の開けた場所には「鳥居」が建っており、その先には小さな祠が祀られている。
どなたかのホームページで見たことがあるが、この祠は「多賀氏」の末裔により建てられたものらしい。
祠の中はキレイに掃除され「賽銭箱」が置かれていたので小銭を入れて手を合わせてきた。
藪により周囲の状況を確認するのは困難だが、祠の周辺は「土塁」が廻らされていて「本丸(1郭)」部分が二重三重の防御だったことは確認できる。
400年という流れでかなり風化してしまっている土塁も、戦国期には立派なものだったと思われる。
(左右の僅かに盛り上がっている部分が土塁跡)
上の画像の陽が当たっている部分は「勝浦街道」を見下ろすところにあるので、おそらく「物見櫓」などがあって、街道を往来する人馬を監視していたのであろう。
城跡から下る「堀切り」部分は、現在車が通れるほど拡幅されているが、当時はもっと狭く、左右の「横矢」には城の番兵が警護をしていたに違いない。
城跡周辺の元「曲輪」だったと思われる部分は現在「民家」や「畑」になっているが、戦国期からの「土塁」は「土留」として活用されている。
千葉県の丘陵には間違いなく人の手で掘られたこのような古い穴が多く現存し、「埼玉県」の「吉見百穴」同様に
「横穴墓」という説もあるものの不明な点も多いそうだ。
現在、所々の穴は塞がれ「板牌」などが祀られている。
このような穴は「第二次大戦」のころまで防空壕や野菜を保存する「ムロ」としても活用されたとのことなので、もしかすると「戦国期」の「池和田城」でも食料の備蓄や武器の保管などに使われたのかもしれない。
3年前にお会いした地元の方のお話では、その方が子供時代に穴に入って遊んでいると炭化した「焼米」が出てきたり、城跡の一部から城攻めの戦いにおいて死んだ将兵のものと思われる「人骨」が出てきたこともあったそうだ。
周囲が木々と藪に埋もれた「池和田城」だが、400年前、たしかにここで大きな戦が繰り広げられた。