鉄砲夢物語

鉄砲のことを中心に、その他趣味ことなど日々の出来事を綴ります

中世戦国城跡・近世史跡探訪

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一昨日は仕事で久しぶりに「山梨県」まで行ってきた。
朝6時に自宅を出発し、途中で事故渋滞に巻き込まれながら「中央道・勝沼出口」を出たのは午前10時過ぎ・・・。
先方との打ち合わせを午後2時過ぎに終え、楽しみにしていた「ほうとう」を食べて「恵林寺」に立ち寄る。
「恵林寺」も久しぶりで、前回ここを訪ねたのは4年以上前のこと。
「恵林寺」は「武田信玄」の「菩提寺」で「信玄」の墓がある。

30年以上前から「戦国時代」の遺構探索を続けているが、とくに「武田氏」に関しては興味があったので、そのほとんどは踏破した。

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この「恵林寺」で特に有名なのが「恵林寺山門」で、「織田信長」による兵火では同寺の高僧「快川国師」が「心頭滅却すれば火自ずから涼し」と唱え火定した場所に建っている文化財なのだ。


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本堂の中は入ることが可能で、有名な「武田不動尊」も見学できる。
「武田不動尊」は「信玄」が「剃髪」した髪の毛を、不動尊像の胸に塗り込んだという伝説が残る。


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その他、「重要文化財に指定されている「庭園」など見所満点だが、以前は常に公開されていた「信玄」の墓所が月に1回しか公開されなくなり、今回は観ることができなかった。
それでも、せっかく訪れたのに見ない手はないと格子の隙間から写真だけは撮ってきた。

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(国の指定名勝として登録されている恵林寺の庭園)


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(信玄の墓)



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(裏手には家臣たちの墓もある)



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駐車場から本堂へ通じる道に一匹の犬がいて、参拝者から「武田犬」と呼ばれているらしい。
4年ぶりの再開だったが元気そうだった。

恵林寺の中を一通り参拝し、とんぼ返りで帰宅したときは午後9時を過ぎていた。

久しぶり(?)の更新です。

毎朝の日課にしている散歩・・・・・
コースにしている河川敷に沿った「サイクリングロード」の横に小さな「小山」があります。
住宅地の中にポツンと在る小さな小山・・・・・・

そこだけが鬱蒼としていて周囲に建ち並ぶ家々の景色とは何となく不釣合いなので以前から気にはなっていたのですが、今朝はじめて近くまで行ってみました。

周辺の地形を眺めると「戦国時代」の「城」もしくは「館」跡のような感じがしないでもありません。


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この小山の横にある住宅からご夫人が出てきたのでお話しを伺ってみると、やはり小山は戦国時代の城跡遺構の一部だということで「大久保城」という城だったそうです。
本格的な発掘調査はされていないようですが、「かわらけ」の一部が出土したということでした。


早速ネットで調べてみると「大久保城」については詳細が分かっていないようですが、城の中心になる所謂「主郭」は川の対岸の先にある「朝鮮学校」あたりに存在したそうで、戦国時代の「千葉氏」に関係した城だったようです。

・・・ということは、この小山は城の警護または監視のための「櫓」跡かもしれません。

いやぁ〜あるんですね・・・・こんな身近にも。
今朝の散歩は大きな収穫でした。





仕事の関係で、20年来お世話になっている著名な建築家で日本建築の分野では知る人ぞ知る「N先生」から「小田原まで行ってみないか・・・・」とお誘いをいただいたのは、2年前の暮れも押し迫った12月26日のことだった。

「N先生」のお弟子さんで、お隣の市原市に住む「A先生」が早朝わざわざ迎えに来て下さり、「N先生」の自宅を回り「神奈川県小田原市」に着いたのは午前9時近くのこと。

まず向かったのは小田原市の小高い山の上にある「石垣山一夜城跡」だった。
「N先生」は著名な建築家というだけではなく、ライフワークで「江戸期以前」の建築物などを長年研究されていて、某博物館における「中世建築」などの考証も行われた実績を持つ。

とくに「戦国時代」の「城跡」には精通されていて、暇を見つけては各地の城跡を探索されている。


「石垣山一夜城」・・・・・・・
歴史ファンや城跡マニアにはお馴染みのこの城、1590年「豊臣秀吉」による「小田原征伐」の際、「豊臣連合軍」の陣城として築城されたもので、「岐阜県大垣市」にある「墨俣城」同様に「一夜」にして建てられたというのがこの「石垣山一夜城」なのだ。

ただ・・・「一夜」というのは偽りの伝承に過ぎず、実際には石工など4万人が動員され、完成までに80日を要したということだ。

さらに伝説では突如として城が出現したことで、敵将の「北条氏政」は居城「小田原城」からそれを見て、あまりの驚きに戦意を殺がれたと言い伝えられているが、「N先生」曰く、「戦国期という張り詰めた時代の中で、しかも百戦錬磨の戦の達人北条氏政が小田原城から僅か10キロ程度という自分のお膝元で4万人もの人間が動いていることに気づかないわけなどあり得ず、恐らく何か理由があって石垣山城の築城を黙認していたのではないか・・・」とのことだった。

もしかすると「策略上手」の「秀吉」のこと・・・・・最初は何だかんだ上手いことを言って「北条側」ににじり寄り、油断したところで手の平を返し、一挙に攻め込んだのではないだろうか・・・・

どちらにしても400年以上も前のことで正確なことは判らないが「事実は小説より奇なり・・・」、現在言い伝えられていることと事実は全く違うのかもしれない。

「石垣山一夜城」に関しては、書籍などの資料やネットなどでも多く書かれているので、興味がある方はぜひそちらを参照していただくこととし、当ブログでは簡単な資料と写してきた画像を掲載しておくことにする。


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(朝日新聞の切り抜きより・・・・)



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(400年経った今も当時の石積みがそのまま残されている・・・)


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最も良好な状態で現存している「井戸曲輪」跡。
秀吉の命によりこの城を訪れた「千利休」はこの井戸の水を汲み茶をたて、秀吉の側室「淀」が化粧の際にこの井戸の水を使ったと伝えられている。
400年以上の歳月が流れた今も井戸の水は沸き続けている。


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嘘か真か分からないが、「秀吉」と「徳川家康」が「連しょん」をしながら、この場所から炎上する「小田原城」を眺め、勝利に酔いしれていたという伝説も残る。
画像の左側3分の1あたりに現在の「小田原城・天守閣」が見える。


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城跡には必ずある祠・・・・・何を祀っているのだろうか。



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主君「浅野内匠頭」の敵を討つべく、「大石内蔵助」率いる「赤穂藩士」の「四十七士」が「江戸・本所(現在の墨田区両国)」にある「吉良邸」に討ち入りをしたのは今から300年以上前の「元禄15年(1702年)12月14日」のこと。
所謂この「赤穂事件」については、後年「歌舞伎」や「映画」などで多く演じられているので、何となく架空の出来事のような感じがしないでもないが、実際にあった事件なのだ。

現在でも「港区高輪」の「泉岳寺」には「四十七士」の墓が現存し、事件の現場となった「吉良邸跡」も両国の街角に僅かながらだがひっそりと残されている。

毎年この時期になると「忠臣蔵」のドラマや映画が必ずテレビで放映される。

そういえば、自分が会社を興したのも12月14日の「討ち入りの日」だったな・・・・


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(穏やかの表情の吉良さん・・・・一体何を考えている?)



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(首洗い井戸)



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(討ち取った吉良上野介の首をこの井戸で洗ったそうだ・・・・)




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(赤穂事件で犠牲になった吉良家の家臣たち)




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(当時の吉良邸は数十倍もの面積だったらしい・・・)





池和田城・・・

今日は「千葉県総合スポーツセンター射撃場」へ「スモールボアライフル(SB)の射撃練習へ行く予定だったが、急な来客があったので中止した。
そんなわけで「鉄砲ネタ」もないことから、昨日に続き「戦国の城」の話しを綴りたいと思う。

千葉県市原市の南に位置する「上総鶴舞」・・・・・
「小湊鉄道」の「上総鶴舞駅」は「日本の駅100選」にも認定され、古き良き時代の雰囲気を残すノスタルジックな駅舎と田園地帯に敷かれた鉄路の景色は非常に人気が高く、ドラマや映画のロケやテレビコマーシャルにも使われ、休日ともなると鉄道ファンのみならず多くの若者たちが訪れてその景色をカメラに収めている。


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しかし、駅を訪れる多くの人たちも十数分歩いたところに熾烈な戦いがあり多量の血が流された「戦国時代の城跡」が残っていることを知る人はほとんどいない。

その城の名は「池和田城」・・・・・
この城は房州の戦国武将「里見義弘」の家臣で、「第二次国府台合戦」で討ち死にした「多賀越中守高明」の居城であった。
高明戦死後、嫡男の「蔵人」及びその弟「兵衛」の兄弟が守っていたが、永禄7年(1564年)に「小田原北条4代当主・北条氏政」率いる1万人の兵たちに攻め込まれ、「蔵人」「兵衛」兄弟の他、城兵たちが奮戦し必死で城を守ろうとするも、「北条」側に密通した内応者が城内におり、「多賀兄弟」と城兵はついに力尽きて自らの手で火を放ち城は落城した。
「蔵人」「兵衛」兄弟、そして蔵人の妻たちは城を脱出したが逃げきれず自刃という・・・・
但し、この言い伝いにも諸説あり、「房総軍記」などによれば、その後「多賀兄弟」はこの城を奪還したという説もある。
その後、「内藤大和守」という戦国武将が「池和田城」を引き継いだものの、天正18年(1590年)「豊臣秀吉」による「小田原征伐」の一環で「浅野長政」率いる軍勢の攻撃にさらされ、「池和田城」の命は消えた。


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この城のことは以前から知ってはいたが、実際に訪れたのは3年前の冬だった。
城跡といっても鬱蒼とした木々と藪に埋もれ、市原市によって建てられた「池和田城跡」と書かれた棒杭がなければおそらく発見することも困難である。
よって城の全体像が描かれた「鳥瞰図」を「余湖くんのホームページページ」から拝借することにした。

「余湖くんのホームページ」 → http://homepage3.nifty.com/yogokun


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規模的にはそれほど大きくなく「小城」の感は拭えないが、「勝浦街道」に面した要害はかなり急峻な守りで固められており、「北条氏政」による城攻めの際、北条側にも多くの犠牲者が出たというのも頷ける。


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城跡に入る道はいくつかあるようだが、先に書いたように周囲が藪に覆われているか周辺の民家の庭先を通っていかなければならないため、「案内杭」の横にある細い坂道を登っていく。
3年前に訪れた時もそうだったが、城内に通ずるこの小道は常にぬかるんでいて乾くことがない。

・・・・・というのは・・・・


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登りきる中間あたりに水が湧いているところがあり、文字の消えかけた案内板には「古井戸」と書かれている。
遥か昔、城に住む多賀氏の家族や城兵たちもこの「古井戸」で水を汲み生活用水として使ったそうだ。
それにしても400年以上も枯れることなく水が湧き出ているのだからすごい。



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ぬかるむ道に足を取られそうになりながらさらに上へ進んでいくと、左手側に「本丸跡」と書かれた古い案内板が目に入る。

拝借した「鳥瞰図」で見ると「1郭」にあたる部分で、ここに多賀氏をはじめとする人たちの生活の館があったとおもわれるが、藪に覆われ大きさ等は判らない状態だ。


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「本丸」の横を通り過ぎると開けた場所に出る。
3年前に訪れとき、この場所で近くに住む地元の方とお会いすることができ、いろいろお話を伺うと月に1回程度、地元の有志が集まり、城跡内の掃除や草を刈るボランティア活動をされているとのことだった。
我々はただ訪れるだけだが、こういう方々がおられるから気持ちよく探索できるのであり、ゴミを投げ捨てるなんてとんでもない話しである。
今回も心無い人によって「空き缶」が投げ捨てられていたので、持参したコンビニ袋に入れて持ち帰った。


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「1郭」の開けた場所には「鳥居」が建っており、その先には小さな祠が祀られている。
どなたかのホームページで見たことがあるが、この祠は「多賀氏」の末裔により建てられたものらしい。


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祠の中はキレイに掃除され「賽銭箱」が置かれていたので小銭を入れて手を合わせてきた。


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藪により周囲の状況を確認するのは困難だが、祠の周辺は「土塁」が廻らされていて「本丸(1郭)」部分が二重三重の防御だったことは確認できる。
400年という流れでかなり風化してしまっている土塁も、戦国期には立派なものだったと思われる。


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(左右の僅かに盛り上がっている部分が土塁跡)


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上の画像の陽が当たっている部分は「勝浦街道」を見下ろすところにあるので、おそらく「物見櫓」などがあって、街道を往来する人馬を監視していたのであろう。


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城跡から下る「堀切り」部分は、現在車が通れるほど拡幅されているが、当時はもっと狭く、左右の「横矢」には城の番兵が警護をしていたに違いない。


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城跡周辺の元「曲輪」だったと思われる部分は現在「民家」や「畑」になっているが、戦国期からの「土塁」は「土留」として活用されている。


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千葉県の丘陵には間違いなく人の手で掘られたこのような古い穴が多く現存し、「埼玉県」の「吉見百穴」同様に
「横穴墓」という説もあるものの不明な点も多いそうだ。
現在、所々の穴は塞がれ「板牌」などが祀られている。


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このような穴は「第二次大戦」のころまで防空壕や野菜を保存する「ムロ」としても活用されたとのことなので、もしかすると「戦国期」の「池和田城」でも食料の備蓄や武器の保管などに使われたのかもしれない。
3年前にお会いした地元の方のお話では、その方が子供時代に穴に入って遊んでいると炭化した「焼米」が出てきたり、城跡の一部から城攻めの戦いにおいて死んだ将兵のものと思われる「人骨」が出てきたこともあったそうだ。

周囲が木々と藪に埋もれた「池和田城」だが、400年前、たしかにここで大きな戦が繰り広げられた。


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