オホーツクの詩季

舛添の公私混同、こんなのが日本の首都東京の知事:国民としてあまりにも恥ずかしすぎる・ためいき。一刻も早く辞めさせろ

ネパール紀行

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ネパール紀行(6)

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12月28日



今日はカトマンズからポカラへの移動日。8時にチャーター車が迎えに来て、ポカラのホテルまで移動する。主要都市を結ぶ幹線道路とあって荷を高く積んだ大型トラックやバス、中型自動車などが、途切れなく往来していた。運転手はくねくねした道路でもスピードをあまり落とすことなく、上手に早く運転していた。すれ違うには道路が狭いところもあり、ひやひやすることもあったが、その割に交通事故がない様で感心していたところ、帰り道で、トラックが荷崩れを起こし横倒しになったり、車輪を溝に落としたりしている車を見かけた。


6時間ほどのドライブで2時半から3時に宿であるペンション・ツーシタに着いた。ポカラは標高800〜900メートルの盆地にあり、カトマンズから比べて300メートル低地にあることもあって、かなり暖かいと感じた。もちろん夜になると冷え込むことはカトマンズと同じである。


ポカラのホテルは今までになく快適だ。お風呂もある。景色もいいし、雰囲気もいいし、食事も日本食がおいしい。このホテルのオーナーは詩人でもあり、私はウェブサイトでその英詩を読み、彼に関心を持ったことからこの宿に決めたのだった。ネパールは海抜60mから8000mのバラエティに富んだ地形を持ち、美しい景観、ヒマラヤから流れる豊かな水がありながら、また冬でも暖かく作物の実り豊かなこの国が、世界の最貧国であるのはなぜなのか、と彼は自国の政治の貧困を憤り、自分は何をなすべきかを考えている。彼は日本語を読み書き話し、メールでのやり取りも日本語であった。地元の日本語学校で学んだそうである。あとで聞いたことであるが、彼は23歳のころポカラのトリブバン大学で英語を教えていたそうである。鬼才のようである。


ポカラは今日から5日間フェスティバルだそうで、たいそうにぎやかだった。
にぎやかな鉦や太鼓の音楽に合わせ人々が行進し、ゾウもねり歩いていた。ホテルの前で若い蛇使いが私を見て、コブラのかごを開いて見せた。そばにいた年寄りの蛇使いも、次々笛を鳴らしてコブラ踊りを始めた。ほかの見物人たちが集まり、若い蛇使いが私を呼び、首にコブラを巻きつかせ、夫に写真を撮らせた。そして耳に2000ルピーと囁いたので、わたしは100ルピーを渡して退散した。他の老人の蛇使いもお金をとりに来たが、100ルピー紙幣がなかったので離れた。1000ルピー札を小さく崩して老人の蛇使いに渡そうとした時には、蛇使いの一行は移動していなくなっていた。



観光客相手の店や露店が連なる通りを、かね太鼓の後を追っかけながら、店に立ち寄っては買い物を楽しんだ。ゾウの絵を刺繍で縫いこんだ壁絵と、テーブルクロスを買った。2500ルピーと4500ルピーを合計5200ルピーで交渉成立。露店で暖かそうな美しいヤクの羽毛でできたブランケットを1枚400ルピーで2枚買った。みな「お祭り価格」だそうである。その他木彫りの仮面も気になったのがある。後日見に来るつもりだ。夫はポカラから眺めるヒマラヤ山脈のポスターを2枚600ルピーで湖畔の観光客に売っている若者から買った。

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12月27日(土)

8時にチェックアウトをして、広場でカトマンズ行きのバス乗り場を確認してから、徒歩10分ほどの古都パナウティの遺跡を訪ねることにした。広場にはもう、野菜や果物を売る近隣の農家の女たちや、落花生を売る少年、衣類などを売る男たちのバザールが開かれ、もの売りや子供や犬でにぎわっていた。その人混みを抜け、田舎道を通り、水場に金属製の水がめをもって水汲みに来ている少女たちを通り過ごして、川沿いをそぞろ歩く。

青空がまばゆい美しい朝の空気を楽しみながら歩くと、逆光に黒くシルエットが浮かび上がるつり橋と、河畔の古い寺院の静かなたたずまいが目に入ってきた。クリシュナ寺院である。水辺に姿を写す古の寺院は、現存の時間というよりは、それを超越した自らの内省的な時間を生き続けているように見えた。

つり橋を渡るとそこはいくつもの古い寺院が現在の人々の生活と寄り添うように建っていた。しかしそれは今の人々の信仰の対象としてあるようには見えなかった。13世紀に建てられたというネパール最古の寺院の一つ、シヴァ寺院は、1988年の大地震で寺院が崩壊しかかったのをフランス人によって修復されたというが、その寺院建築や屋根を支える木造彫刻は見あきることがない見事さである。それは現在のネパール人の宗教の中に生きているというよりは、人びととはかかわりなく古の永遠の時間を生きているように見えた。

シヴァ寺院のそばの石畳の小道に、旅行者と見るとだれかれなく、お金をくれと手を差し出すこぎれいな身なりの老婆がいた。2回目には彼女をやり過ごして、そばを通り川の縁の寺院にゆく。そこは現在でも利用されていて、古寺と隣り合いながら、いまも人々の暮らしの中に生きている川が人々の祈りを新たにしつつ生き続けていた。古の祈りの地には、今も川辺で死者を焼いたばかりの黒い煙が立ち上っていた。

その同じ川で、たくさんの女たちが川辺に集い洗濯をしていた。日曜日とあって子供たちも一緒に洗濯をしたり水浴びをしていた。また女たちが連れ立って、洗い上げた洗濯物を晴々とかごに入れて、頭の上に乗せて運ぶ姿が畑の畔道を歩いてゆく光景が、まばゆい太陽の光に透けて見えた。小道で数頭の山羊を追う少女に、英語で話しかけると、恥じらいながら上手な英語で答えてくれた。

川沿いの平原には畑がひろがり、この季節は農繁期らしく、一家一族総出で畑の地起こしをしたり、種をまいたり、忙しく働いている人の群れがあった。川を見下ろす段々畑や丘の上の家のそばには赤いサリーをまとった女たちや子供や男たちの小さな人影が、広々とひろがる青い空に美しく映えていた。

ナモーブッダの修行僧

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カトマンズ盆地でのチベット仏教三大聖地のひとつ、ナモーブッダには200人の修行僧が修行生活を送っている。10年ほど前まで、ここにダライラマが暮らしていたと聞いた。 

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12月26日

朝8時、タクシーで1時間半の峠の町デユルケルへ向かう。古都ネアール朝の寺社とレンガ造りの崩れかけた建物に暮らす現在の人々の 息づかいを見て回り、次の日は古都デュルケルを後に、段々畑とヒマラヤの山並みを見ながら、ふもとのもうひとつの古都パナウティまでトレッキングをするためである。ホテルの前のバス停あたりで、ガイドを申し出た若者に、2日間25ドルでガイドを頼むことにした。
狭い路地を歩きヒンズー教の寺社の建築、人々の暮らし、垢だらけではあるが屈託のない明るい表情の子どもたちの間を通る。旅行者の通る地方では「写真を撮って、1ペニーちょうだい、甘いものちょうだい」と寄ってくる、汚れなきかわいい子どもたちについてまわられる。

そのような街を外れ、大きな菩提樹の下でミカンを売る女たちを通り過ぎ、緑の階段が1000段も続く丘を登ると、晴れた日にはヒマラヤの白い山並みが見えるカーリー寺院に着いた。あいにくガスがかかってヒマラヤの霊峰は見えなかったが、峠から見る雄大な段々畑や、放牧されている牛やヤギや子どもたちや老人たち、女や男たちの、平和な暮らしぶりには、生の実質というものを感じた。

帰り道、頂上近くの小さな山道を歩いて、ガイドが私たちを連れていったのは小さな田舎家で、2人の子どもが山羊と一緒に家の前で遊んでいた。そばに赤い布を身にまとった女性がいた。ガイドのイスワールの住んでいる家だという。彼の母親だという女性が椅子を出してきてくれ、イスワールは細工職人である父親の作品を売る手伝いをしているとして、水牛の骨に鋼を施したナイフやクジャクチョウの置物や、キーホルダーに使えそうな小物を見せてくれた。一生懸命に生活している人々への敬意と、手作りの営みの価値を受け止めたいという思いから、私は2000ルピーでそれらを購入した。

その後イスワールは自分たちの質素な家に案内した。土間に小さな竈があるだけの台所、たったひと部屋の寝室、二階に若夫婦の部屋があるようだった。
彼の妻と3歳半の子どもは、彼女の父親の葬式のため留守だと言っていた。そこに遊んでいた2人の子どもたちは彼の甥と姪なのだということだった。

12月27日

朝8時半、約束通りガイドとパナウティへのトレッキングを始める。
まずバスで15分ほど下り、そこから山を登ったり降りたりしながら、チベット仏教の聖地ナモーブッダを目指す。雄大な段々畑が延々と続き、その中に点在する小さな家や人の影、赤い布をまとった女の色彩の鮮やかさ、黄色い菜の花畑・・・それらはまるで地上の楽園を思わせる優美さと安らぎを与える光景であり、ネパール初日に目にした、首都カトマンズの地獄絵図と対称をなしていた。

ナモーブッダでは200人の僧侶修行の若者や僧侶が暮らしている。赤い僧衣をまとった少年たちが、宿舎の庭で楽しそうに遊んだり、集い語りあったりしていた。5色の旗が山の頂上に無数にはためいて、そのめくるめく光景は壮大な宇宙模様を感じさせた。風にハタハタとなびく無数の旗のむこうの頂上に、3人の僧侶の黒い影が動く光景は詩情を感じさせるに十分だった。

急な山を降りる途中、ヒンズー教の寺院に立ち寄る。シバ神を祭るこの寺院は毎年1月満月の宵に一日中火を焚き、踊り、マリファナを吸うのだとガイドが説明していた。髪の毛が2メートルもある神社の守りである聖なる男性が姿を現したので、敬意の挨拶を示した。
山道を下る途中、空が曇って来た。段々畑を眺め、民家のそばを通りすぎつつ、幸せな気分が満ちてくる。家の前には子どもたちが遊んでいて、年寄りたちが見守っていて、鶏やヤギや牛や犬たちが人間といっしょに、自由に餌を食み遊び、親子で睦あっている。
パラパラと雨が降りはじめた。サク―という村に着いたとき、運良くバスが来て、パナウティへ向かった。

3時ころホテルパナウティに到着し、お茶を飲みながらイスワールに2日分のガイド料30ドルを渡すと、非常にうれしそうな表情をした。25ドルに値切ったのだが、彼の人柄の良さに対して私たちの気持ちがこもった5ドルだということが互いに分かり合えたしるしであった。
夫は持ってきた双眼鏡を彼にプレゼントした。このような心の通い合い(その反対の孤立、疎外感)は、目には見えないいのちの流れと意味の世界を形成しているのだと感じた。私たちはイスワールが彼の周りの家族や友人たちや、ネパールのための力になることを信じることができた。

カトマンズ―パタン

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12月25日

昨夜夕食後、8時には寝、午前1時に目がさめ、カトマンズ2日目の印象を記すことにする。

第1日目でのカトマンズの都市の幻滅とショックが冷めやらず、連れである夫は街から離れたい一心で、中心地観光は避けて、パタンへ行くことを主張した。
ホテルの前に停まっていたタクシーと交渉して、300ルピーで20分ほど走ったところにあるパタン宮殿へ行く。今日は車道も広く、交通は滑らかに進んでいった。相変わらず交通量や人は多く、スモッグと埃が白く街をおおってはいるが、昨日のような混乱渋滞はなく、路傍の浮浪者たちの群も見受けられなかった。
川沿いの環状線道路を通ってゆく。その川を渡るとき、ちらっと見えた河川敷には大きなスラムが形成されていた。橋を渡ってからまだかなり走ったあと、古都パタンの宮殿に着いた。宮殿広場の入場料は一人500ルピー(別に博物館の入場料は500ルピー)だった。

赤レンガに黒っぽい屋根、ひらひらのフリルが軒下になびいている宮殿の集まりが、青い空に美しく映える光景が、清涼感を与えてくれた。広場に沢山の人が群れていることには変わりはないが、建物や広場の様子には埃っぽさはなかった。いくつもの宮殿を見て歩き、ヒンズー寺院の内部に入ることが許可されている寺に上り、広場で店を広げている商売人と値段の交渉をしつつ買い物を楽しんだ。露店を見ていると必ず押し付けられるが、こちらも値切る楽しさもあり、私は石のネックレス類を約半値に値切って、全部で5000ルピーの買い物をした。夫は山小屋に使いたい、ブロンズ製のドアノブを2個買いこんだ。クジャクの彫像のノブとゾウの彫像のノブだ。重く大きいが夫が気に入ったもので、値切って20ドルと10ドルで満足していた。

広場を通り抜け、お茶屋さんやレストランがある路地に入り、ゴールデンテンプルという名の寺院やその他の散在している寺を、人々の生活圏を歩きながらそぞろ歩きを楽しんだ。今日は1日ゆったりと時間を楽しむ予定であった。相変わらずクモの巣のように電線が無数に垂れ下がった電信柱は見受けられたし、小さな広場に日差しを浴びて昼寝をしている犬たちは、平安そうではあったが、どの犬も皮膚病にかかり、毛が抜けていた。夫は「犬のジステンバーで、みんなにうつるんだ。治らないで死ぬだろう」と言った。

小さなお茶屋さんに入り、お茶に目のない夫はお茶を少々買い、若い店員さんの入れてくれたお茶をいただいた。その若者はたいそう日本語が上手で、聡明そうな穏やかな表情の若者だった。その隣のマネーエクスチェンジで、1万円をルピーに換金した。昨日よりも40ルピー円高になっていて、1万円は8390ルピーであった。

広場への戻り道、宗教美術の店に目がとまり、入ってみた。見るだけのつもりであったが、以前から関心のあった曼陀羅絵図や、仏陀涅槃図、輪廻転生図など、次々に見せてもらううちに虜になってしまった。やわらかい人柄のお店の人は、学生の描いた絵を見せ、それから巨匠の絵を比べて、その質の違いを教えてくれた。巨匠の絵はさすがに心をひきつけるものがあり、目移りするほどであった。この人は店主であり、向かいの美術学校の先生でもあり、この作品の作家である巨匠であることが分かった。デブ・クマール・ラマという作家で日本やタイその他の国で個展を開いたり、章を受章したり、日本の筑波にきたこともあるそうである。
彼の絵は本来はもっと高価なのだが、ここでは自分で売るからあまり高くないと言って、120ドル、140ドル、170ドルの値段の宗教画を、3枚で370ドルの割引で売ってくれた。1枚を仕上げるのにどれくらいの時間がかかるのですかと尋ねると、1ヵ月半かかったとのことであった。私たちはいいタンカ(仏画)は1枚数万円すると聞いていたので、1枚の値段で気に入ったタンカを3枚手に入れることができ、しかも作家の手ずから購入できたことをうれしく思った。

途中から若い助手のような男が次々と作品を見せ、マスターの手伝いをしていた。ラマ氏は店主であり美術学校の先生でもあり、若者は彼の学生でもあるということがわかった。私たちは向かいの美術学校に案内され、そこで彼の描いた絵などを見せられた。妹の夫である義弟が彼の絵が気に入り、77ドルで1枚買った。先生も若者も義弟も私たち夫婦も、そのアトリエ兼学校のカウンターで、ネパールティーをごちそうになりながら、みんなハッピーな気持ちの輪に包まれていた。
他に2人の学生がアトリエで絵を描いていた。

若者の名はプラカシュ、26歳であるが2人の子どもの里親であると言った。彼らはチベット難民の支援活動もしており、歩いて20分ほどのところにあるチベット織物工場に私たちを連れていった。彼の作品を買ってくれたお礼に、いいレストランやパタンの街の案内を買って出てくれたのである。まず、外国の大使も食べに来たという、ネパール式お好み焼きのお店に連れていった。昔懐かしい手作りのお好み焼きをたいそう庶民的な土間のような場所に座って食べた。おいしかった。

腹ごしらえの後、織物工場への30分ほどの道のりを歩きながら、彼はいろんなことを話してくれた。彼は結婚はしていないが2人の養子を養って学校に通わせているのだと言った。彼自身が子供のころ、父親を亡くし母と弟との貧しい暮らしをしていた時、今の仏画の師匠に出合い、彼の教育費を出してくれて高校まで出たとのことだった。彼が流ちょうなきれいな英語を話すのは、学校での教育とトレッキングのガイドをして身につけたものであるらしい。
利発な彼であるが、彼がもっと若いころいたずらで仲間とマリファナを吸ったことが師匠の知るところとなり、彼は師に呼び戻され、弟子として仏画の修行をするようになったのだと語った。今は3、4、5月と10、11月にヒマヤラ・トレッキング・ガイドをし、それ以外は、店の手伝いやタンカの製作の仕事をしており、村から母を呼び寄せて一緒に暮らしているとのことだった。

私はこの話を聞いて、幼い頃の虐待の体験が次世代に虐待を繰り返す「悪の連鎖」が問題となっているある国とは対照的に、他人の恩を受けた人が、その恩をさらに次の世代に返してゆく、善意の連鎖のよき実例を見た思いがして感銘をうけた。ネパール人の徳性の高さを知り、悲惨なネパールの姿に打ちひしがれていたわたしの心は、次第に癒されていった。この二人のみならず、ネパール人の道徳心に根差した、穏やかで人懐こい人間臭さは魅力的であり、それは壮麗な山岳をいただいたこの地の自然と、そこから生まれた宗教を彼らの人柄に写し取って生きているからであるように思われた。

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