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秋の情景 2014年11月2日(日)
11月の連休中日の日曜日
先週来の寒さも和らいで
温度計は朝8時で15℃
朝の散歩に出る
森の木々はすっかり葉を落として
裸の梢を冬に備えて引き締め
径の端には
木枯らしが残した枯葉が
身を寄せ合うように散り敷かれている
能取湖の大湿原は枯れて
黄色の葦原となり
道野辺のツルウメモドキの
黄色と赤の実が
枯れ野の風景に
慎ましやかに色彩を添えている
北の夏に紅色の調べを添えた
ハマナスの花は
今、冬枯れの野に
刺のある紅葉と
宝石にも似た透明な赤い実をつけて
枯れて雪の中に眠る時を
待っている
花と草と木々の夏が過ぎると
鳥たちがやってくる季節が始まる
今朝は湿原の湖のほとりで
丹頂鶴のつがいが
仲良く餌を探し歩いているのが見えた
渡り鳥の白鳥が
シベリアから飛来する時期だが
まだ大群の到来には至っていない
今、私の書斎から
葉を落とした白樺の枝の向こうに
渚で餌を探している二羽の丹頂の姿が見える
穏やかな秋の朝の情景である
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随想
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gataroこの国で確かにあったこと・2014年夏/1 今も唱える死者の名−−俳人・金子兜太さん(毎日新聞) http://www.asyura2.com/14/senkyo169/msg/523.html
毎日新聞 2014年08月06日 http://sp.mainichi.jp/shimen/news/20140806dde012040002000c.html http://kwout.com/cutout/m/nz/ux/5az.jpg (写真)俳人の金子兜太さん=埼玉県熊谷市で2014年7月28日、内藤絵美撮影 ◇志願しトラック諸島へ、指揮する軍属が次々餓死−−俳人・金子兜太さん(94) 先日、差出人不明の一通の封書が俳人、金子兜太さんの埼玉県熊谷市の自宅に届いた。新聞記事の切り抜きと、手書きの便箋が1枚。
記事は埼玉県のある公民館が、地元の愛好会が選んだ投稿俳句「梅雨空に 『九条守れ』の 女性デモ」の広報誌への掲載を拒んだことを報じていた。「世論を二分する問題だから」が拒否の理由だ。便箋には「自由に俳句を作れる世の中に、先生のお力添えをお願いします」とあった。
「誰が送ったか分からんが、とんでもねえ時代になったと感じているのは私だけじゃないんだね。どこか変ですか? 穏やかで平和な句ですよ。なのに、今やこんな句までやり玉に挙げられる。あの時と同じですよ」。扇風機だけが回る庭に面した書斎で、金子さんが首を振った。 旧制高校時代、俳句誌「土上(どじょう)」を主宰していた俳人、嶋田青峰に評価され、投句がたびたび誌面を飾った。その嶋田は1941年2月、治安維持法違反容疑で逮捕される。同誌が「進歩的思想を帯びている」のが理由とされた。肺結核が悪化して留置場で喀血(かっけつ)、釈放されたが回復せず、3年後に62歳で死去した。
「釈放後、東京・牛込の自宅を訪ねたら嶋田先生は座敷にはうように現れて。『(なぜ捕まったか)分からん、分からん』とつぶやいて、こう言った。『治安維持法のような法は必ず誇大に扱われるようになる。君には実感がないだろうが、わきまえておかないとひどい目に遭う』と」 だから昨年の特定秘密保護法成立時も嫌な予感がした。さらに他国の戦争に介入できる集団的自衛権行使容認の閣議決定、地元の俳句掲載拒否問題が息苦しさを募らせる。「秘密保護法だって必ず適当な理由を付けて拡大運用する。特に集団的自衛権、ありゃ何だい。安倍さん(晋三首相)みたいに『死の現場』を知らねえ連中に限って、『自衛だ』とか言って戦争に首を突っ込みたがるんだよなあ……」。声は時折かすれるが、話せば話すほど、厚いまぶたに埋まった瞳が光を帯びてきた。 金子さんにとって「死の現場」とは、西太平洋トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)での出来事を指す。同諸島には連合艦隊の拠点となる基地が置かれていた。東京帝大を卒業した金子さんは44年3月、海軍主計士官として赴任する。基地の設営・修繕のために徴用された軍属約200人を指揮した。
「大学で大国が植民地争奪のために戦争する仕組みを学び戦争に批判的ではあったんです。でも貧困にあえいでいた郷里の埼玉・秩父の大人たちが『戦争が起きれば景気が良くなる』と言っていたのを聞いて育って。恥ずかしい話だが『豊かになるなら戦争も悪いことだけじゃない』という意識があった。だ
から志願して最前線に赴いたんです」 高揚感は、あっという間に崩れ去る。赴任して4カ月後には武器や食料の補給が途絶えた。手製の手投げ弾が作られ、爆発実験が金子さん率いる軍
属に命じられた。「軍属は人間扱いされなかった。だからむちゃな命令が来る。それでタナベさんという人が志願して、海岸で実験しようとしたら……」 タナベさんが持っていた手投げ弾が突然爆発した。体が宙を舞い、どさりと落ちた。右腕は吹き飛び、背中が割れていた。近くで実験を指導してい
た少尉も心臓に破片が突き刺さり、もがきながら死んだ。初めて人の死を間近で見た瞬間だった。「なーにが『戦争も悪いことだけじゃない』ですか。自分の甘さが心底、嫌になりましたな」 農業経験のない軍属を指揮してイモ栽培を試みたが、収穫間近という段になって虫に食われて全滅。わずかな食料も軍人に優先的に配給され、軍属には届かない。皆、みるみる飢えていった。 「軍属たちを見回ると『主任(金子さん)、腹減った、何とかしてくれー』って細い声で言われて。主計士官は飯を食わすのが仕事ですが、どうしようもない。『腹がすかないよう寝ていろ』と命じることしかできなかった」
柔らかい雑草を「南洋ホウレンソウ」と名付け、海水でゆでて食った。ひもじさに耐えかねた軍属は食べ過ぎて腹を壊し、死期を早めた。「朝見回ると、やせて小さくなった男たちがあちこち転がって死んじまって。彼らは軍人じゃねえ。食うために島に来たのに、飢えて死ぬ。哀れでたまらんかったなあ」 わずかに残った漁船で漁に出て、米軍機の機銃掃射で死ぬ。飢えのあまりフグを食べて死ぬ。金子さんは「死のオンパレード」と呼んだ。「いろんなことがあった。あり過ぎましたなあ……」。豪放らい落な人柄で知られる俳人の言葉が、そこで途切れた。
終戦後、1年4カ月の捕虜生活を経て復員した。
水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る
自他ともに代表作として挙げる名句だ。戦没者慰霊のために建てた墓碑を島に残し、自分は日本に引き揚げる駆逐艦から島影を見つめる。万感の思いを込めた。
この句には初めて明かされる後日談がある。帰国前、金子さんは地元のカナカ族の部族長に海の見える丘を指定して「墓碑を建ててくれ」と頼んで島を去った。「碑は建っていると信じていた。でも最近、島に慰霊に行った人に聞くと、そんな碑はどこにもないというんだ。納得しましたよ。実は島の日本人、カナカ族の食料を奪っていたから。慰霊なんてとんでもない、彼らに恨まれていたんですね。かっこいいことなんて何一つない。これが戦争です」
今もふと、当時の記憶がよみがえる。耐えられなくなると、つえにすがって立ち上がり、死者の名前を声に出して読み上げる。金子さんは座禅ならぬ「立禅」と呼ぶ。
「70年たってもつらいですな。戦争で苦しむ人間は我々の世代だけでたくさんです。なのにまた、集団的ナントカとか妙な理屈をこねて命を軽く扱う世の中にしようとしている。命の大切さに理屈などないんですよ。私もあとどれくらい生きるか分からんが、最後まで叫び続けるさ」 蚊取り線香をかいくぐった蚊が、時折、金子さんの肌に吸い付く。ゆっくりと手をやって追い払うだけ。一度もたたかなかった。【吉井理記】
◇ 再び「戦争のできる国」へと近づいているように見える日本。ほんの69年前、異国にしかばねをさらし、家族を引き裂かれたことを忘れたかのように。あの時代をくぐり抜けた著名人が「確かにあったこと」を語り伝える。
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<オホーツク・熊物語>
2014年6月中旬、6月11日〜6月17日にかけて北海道網走市内で、ちょっとしたクマ出没の騒動があった。
網走市街の中心部で6回、郊外で3回の、計9回のクマ目撃情報があり、大騒ぎになった。
6月11日夜、郊外の住宅地、向陽ケ丘に最初に目撃された仔熊が、6月17日に、その場所から400mほど離れた、平和橋の付近で発見された。その後、子グマの目撃情報は出ていない。
その間のクマの動きを推測すると、6月11日深夜、最初の場所から網走刑務所の裏のあたりを通って、網走川を泳ぎ渡り、大曲団地の付近で目撃され、そこから更に東に、JRの線路沿いに2キロほど離れたところで目撃されている。その後、同じ12日のクマの動きは、市街地を横切り、車や人の往来の多い道路を渡って、海岸沿いの高台にある公園で、日中目撃される(木の広場)。6月12日のクマは6箇所で目撃された。
この日は、クマは人や車の多い地域に残された森のあるところを、パニック状態で逃げ回ったことが想像される。
その後、13、14日は目撃情報がなく、この間クマはあまり動き回ることなく、どこかでじっと隠れていたことと思われる。
2日後の15日になって、12日の日に最後に目撃された所から南に1.5kmほど離れた住宅街で夜目撃され、さらに同じ日の夜10時ころ、そこから北東700mくらいの公園の駐車場で目撃される(「駒場の水の公園」で、ここは住宅街や商店街に近い)。
さらに2日後、16日はたぶん目撃情報はなく、東に5〜600mほどある海岸の台地に沿った、南北に細長い公園にひそんでいたものと推測される。最後に目撃された6月17日の場所とこの公園の端とは、直線で約4kmほど離れている。その4kmの間を、16~17日の夜間に、台地から降りて、網走港付近で網走川を泳ぎわたり、そこから海岸沿いに6月17日の最後の目撃地付近に移動したものと推測される。
その後、目撃情報がないということは、そこからは海岸に沿った台地の森をつたって、元いた能取岬の森へ帰ったものと推測される。
この間の行政の対応としては、上記の「駒場の水の公園」に監視カメラを付け、クマの目撃された情報のある住宅街を広報車が出て、クマ注意情報を流して回った。
通常子グマは2月の初め頃、冬ごもりの穴の中で産まれ、2年目か3年目の初夏の頃が子別れの時期になる。2年目の1歳8ヶ月目の頃に、子別れをすることもあるが、普通は3年目の2歳と2〜3ヶ月の間、子グマは母親と一緒に暮らす。この時期の子グマは「明け3歳」と呼ばれ、体長1mちょっと、体高5〜60センチで、ちょうど大人の男性が膝をついて四つん這いになったくらいの大きさである。これが親から独立してまもなくの若いクマであり、人身事故の半分は、この若い熊によって引き起こされている(小田島護氏談・ヒグマ研究家・写真家)。
以下はクマの立場から見た、子グマの冒険物語である。
能取岬の仔熊の冒険
僕はオホーツク海を見下ろす能取岬の森で生まれたんだよ。ぼくが産まれて満2年と4ヶ月、そこでおかあさんといっしょに平和に仲良く暮らしていたんだ。そこは高台の大きな森で、ミズナラやカシワがたくさんの実をつけて、僕たちの食べるどんぐりがいっぱいなるんだよ。冬ごもりする冬になる前にいっぱい食べて、春になって目が覚めた時にも、秋に食べ残したどんぐりを食べることができる位、いっぱい実がなるんだ。
それに森にはいっぱいの下草が生えているから、春になると沢沿いに、フキやイラクサ、ザゼンソウやウバユリ、クマザサのたけのこが、冬眠から目覚めたぼくらを待っていてくれるんだよ。こうして僕はお母さんにいろんなことを教えてもらいながら、甘えてベーベー泣いたりしながら、森の中で楽しく遊んでいたんだ。
だけど春になって、母さんが次の子供を産む準備が始まると(1年に一回の発情期が始まる6月頃)、オスの熊がやってきて、僕たち親子を追い回すようになったんだ。
お母さんよりも大きな大人の雄グマが近づいてきて、子供のぼくを邪魔だと言って追い払おうとしたんだ。(発情期のオスは子どもを追い払おうとする。)お母さんは僕を守ろうとしてあちこち逃げ回っているうちに、僕はお母さんからはぐれて、迷子になってしまっちゃった。僕たち親子を追い回す怖いオスグマからあわてて逃げたため、僕はもとの道がすっかりわからなくなってしまったんだ。
初めてのひとりぼっちの僕は、見慣れないところに出て、どうしたらいいか分からずに、あっちこっち行ったり来たりしているうちに、川を泳ぎ渡って、「人間」という生き物の住む、街の中に出てしまったんだ。そのために車とか人間とかに見つけられて大騒ぎになったようなんだよ。
どうしよう、どうしよう、とウロウロ、パニック状態になりながら、人間の住む街中を歩き回っている時、あちこちで人間に見つかってしまったんだ。人間の住む街は、夜になっても明るい電気がつき、車も明かりをつけ夜中まで走り回っているし、迷子になって怖い思いをしながら、ぼくはあちこち逃げ回りながら、小さな森のある公園に迷い込んで、様子をうかがいながら、昼間はそこの藪の中にひそんでいたんだ。一日二日の間は人に見つからないように、ジッとしながら、どうかして元いた森に帰りたいな〜と一生懸命考えたんだ。そして二日ほどして夜に海岸の台地へ歩いて行ったのさ。
その街のはずれの丘に行ったとき、遠くから森の匂い、お母さんと暮らした懐かしい森の匂いがしてきたような気がしたんだ。そこで僕は思い出したんだよ。「どこかで川を泳いできたんだ」ということを。「そうだ、川を渡って戻らなくっちゃ。」それで夜、もう一度その匂いのする方へ、海の匂いのする海岸の方へと坂を降りて行き、対岸へと川を泳いで渡ったんだ。僕のふるさと、母さんのいる能取岬の森のある方向に渡ったんだ。
ぼくはとうとう帰る方向を見つけたんだ。帽子岩が近くにあった。この懐かしい森の匂いのする方向に歩いてゆけば能取岬までもうすぐだ!
ぼくは夜になって、もう人間がいない海岸を、僕が生まれ住んでいた森の方へ、嬉しくて心ワクワクしながら歩いて行ったんだ。お母さんがいる森に帰るんだ、優しい母さん、母さん。もうすぐ行くからね、母さん。
そして僕は無事に森に帰ったんだよ。
そこでお母さんに会って、また秋頃までしばらくの間一緒に暮らすことになるか、あるいはこのままずっと僕ひとりで生きてゆくことになるかもしれないけれど、僕は怖い思いをして強くなったからもう大丈夫さ。
(この2歳半の子グマは、能取岬の森で、また発情期が終わった母親と一緒に暮らすかもしれないし、あるいはそのまま「子別れ」になるかもしれない。子グマは1年未満では母親から離れては生きてはいけないが、この子グマは産まれてから2年半経っているから大丈夫だ。)
以上が迷子になった子グマの話である。
恐ろしい体験をして、能取岬の森に戻っていった子グマの冒険物語である。
一件落着!くまさん、よかったね〜。
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<オホーツク・熊物語>
2014年6月11日〜6月17日
北海道網走市で、6月中旬、ちょっとしたクマ出没騒動があった。
網走市街の中心部で6回、郊外で3回の、計9回のクマ目撃情報があり、大騒ぎになった。
6月11日夜、向陽ケ丘・眺海橋で発見された仔熊が、6月17日に能取岬方面の向陽ケ丘、二ツ岩あたりで車から発見された。その後、子グマの目撃情報は出ていない。
その間の人間の動きは、「駒場の水の公園」に監視カメラを付け、住宅街を広報車が出て、クマ注意情報を流して回った。このような場合、人間が注意するべきことは、飼い犬に関して、余る程の餌を与えないこと、犬がキャンキャン吠えたら、クマが近くに来ていることを警戒することである。また散歩する際には、決して犬を放してはいけない。なぜならクマを見つけた犬が、飼い主の方に帰ってくる時、クマが人間の方にむかってくるからである。
通常クマは2月頃産まれ、普通は3年目の春が子別れの時期になる。1歳9ヶ月目の頃に、仮の子別れをすることがある。普通は2歳と2〜3ヶ月の間、仔熊は母親と一緒に暮らす。この時期の小熊は「明け3歳」と呼ばれ、産まれてから2歳と3〜4ヶ月経ったくまのことで、体長1mちょっと、体高60センチで、大型の犬くらいの大きさである。この時期のクマが、親から独立してまもなくのクマであり、人身事故の半分を占めると言う(野生動物研究家:小田島護氏談)。
以下はクマの立場から見た、子グマの冒険物語である。
能取岬の仔熊の冒険
僕はオホーツク海を望む能取岬の森におかあさんといっしょに住んでいたんだ。
産まれてから満1年と4ヶ月、森の中で平和に仲良く暮らしていたんだ。
ベーベーなきながら、広葉樹の自然林で遊んでいた。だけど春になって、母さんが次の子供を産む時期が始まる、1年に一回の発情期が始まる6月、オスの熊がやってきて、僕たちを追い回すようになったんだ。
お母さんよりも大きな大人の雄グマが近づいてきた。ぼくたち子供を邪魔だと言って追い払おうとした。(発情期のオスは子どもを追い払おうとする。)お母さんは僕を守ろうとしてあちこち逃げ回っているうちに、僕はお母さんからはぐれて、迷子になってしまったんだ。子連れの親子を追い回す怖いオスグマから逃げたため、僕は元の道がわからなくなってしまったんだ。
僕は見慣れないところに出てしまった。それであっちこっち行ったり来たりしているうちに、川を渡って街の中に出てしまった。そのために車とか人間とかに見つけられて大騒ぎになってしまったんだ。
ウロウロ、パニック状態で街中を歩いている時、6月12日、5箇所で人間に目撃されてしまったんだ。街は夜になっても電気がつき、車の明かりがついているし、迷子になって怖い思いをしながら、あちこち歩いて自然公園に迷い込んでひそんでいたんだ。
だけど元いたところに戻れなくて、2〜3日街中をウロウロすることになっちゃったんだ。333道路をどこかで渡り、木の広場に出て、駒場を通り、台町の方まで行った。下の川をわたり、能取岬の方面に行った時、二ツ岩のあたりで車に出会ってしまった。
人間以上に恐ろしいところに出てしまい、あっちに逃げこっちに隠れして、昼間は隠れているけれど、夜になっても街の中は人や車が走り回り、また僕は見つけられてしまった。森とは違って、夜も安全ではないんだ。(この日6月12日に5〜6回目撃されている。この日が子グマのパニック最高潮の時期に当たる。その後だんだんと落ち着いてくる。)
街のはずれの丘に行ったとき、遠くから森の匂い、懐かしい森の匂いがしてきたんだ。
少し気持ちも落ち着いてきて、ぼくは考えたんだ。それで森の中を通って、ぼくは網走市の街の中、向陽ケ丘の住宅街と刑務所の外れあたり、大曲の上流で、川を泳いで渡った。
恐ろしい人間のいる街の中に迷い込んで人家の狭いところに戻って隠れていたり、昼間は藪の中に隠れ、少しづつ、広葉樹の自然林が残っている木のあるところを歩いて、お母さんのいる森の方に向かいながらウロウロしているうちにやっと、帰る方向を見つけたんだ。帽子岩が近くにあった。能取岬までもうすぐだ。
それで夜、もう一度その匂いのする方へ、海の匂いのする海岸の方へと、川を泳いで渡っていった。夜になってもう人間がいない海岸を、僕が生まれ住んでいた森の方へ歩いて行ったんだ。そして僕は無事に森に帰ったんだよ。
そこでお母さんに会って一緒に暮らすことになるか、あるいは僕ひとりで生きてゆくことになるかもしれないけれど、僕は怖い思いをして強くなったからもう大丈夫さ。
(この1歳半の子グマは、能取岬で、また発情期が終わった母親と一緒に暮らすかもしれないし、あるいはそのまま「子別れ」になるかもしれない。1年未満では母親から離れては生きてはいけないが、この子グマは産まれてから1年半経っているから大丈夫だ。)
以上が迷子になった子グマの話である(聞き書き:小田島護氏)。
恐ろしい体験をして、能取岬に戻っていった子グマの冒険物語である。
一件落着!くまさん、よかったね〜。
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あでやかな森の落ち葉を拾い来て
障子に貼りて夢みん我は
***
今シーズン初めての雪の朝
2センチほどの雪が黒い塀に積もっている
木々の葉はすっかり葉を落とし、それといれかわりに
私の可愛い友達、鳥たちが窓辺に姿を見せ始めた
昨夜、激しい風の音を枕辺で聞いていたが
朝、庭に目をやり、その光景に唖然とした
5mほどの高さのシラカバの木が、
根元から倒れて塀を押し倒し、
隣の牧草地に横たわっている。
家の周りと山小屋の冬支度を済ませて、夫は旅に出て留守だから、
片付けは雪が溶ける来春になるかもしれない。
彼は秋真っ盛りの内地へ
縄文の心を探しに撮影の旅に出て行った。
鬼のいない間の洗濯とばかりに、私はゆったりとした時を過ごす。
例年にも増して美しい紅葉の秋を、
押し葉にしてとどめ、白い冬の楽しみにする。
9月に来客あり、破れ障子を張り替えて、
真っ白で寂しくなった障子に
秋の艶やかなもみじを貼り付け
白い冬に向かいながら、秋色の豊穣と
この世の美しきものたちをたたえる
そして目を閉じて
暑い夏の思い出をたどりつつ、ふるさとの海や
闘病の兄家族と、亡き両親との
交感の思いにしばし涙ぐみ、心満たされる
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