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素直であれ 前向きに働け 純粋に、濁らず

魂の法則

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魂の法則

オイラの書庫にある 「魂の法則」が
 
文字色に凝っていたために
(というより 以前の背景の設定との兼ね合いだよね) 
 
かえって読みにくい状態でしたが
 
読みやすいように 変更しましたので どうぞ
 
おいらも も一度 ジックリ読んでみます
まず 飄平さん(でよろしいでしょうか?)ありがとうございました
あなたのおかげで この書に出会えました
 
ヴィセント ギリェム・プリモさん ありがとうございました
あなたのおかげで この世?の真実を垣間見ました
 
邦訳の 小坂 真理さん ありがとうございました
あなたのおかげで サクサクと真理を受け入れることが出来ました
 
いまは 全ての人に感謝したい気持ちでいっぱいです
 
ただ 間違いなく言えるのは まだ全文は読んでいません
ということ
 
視力が悪いので パソコンで文字を追うのがつらいので いちいちプリントアウトしてから読んでおりましたところ プリンターが見事 故障しました 
 
修理にはすぐ出したのですが サポート期間も終了していて 部品調達できず まだ途中までしか印刷できいてません
 
ですから つまり まだ感動は半分なんです!
イエスが どうしたこうしたが見えましたが 読んでません 楽しみです
 
新しいプリンターは あす 到着予定です
ガツガツ印刷して 新たな感動の涙を流すつもりです
 
おお〜んした(その昔の高校時代の挨拶で 「ありがとうございました」) 
 
ps.
それにしても 5000文字制限には まいりましたT-T 
魂の法則・・・その最終回 別れ  つづく
 
 
 
作者のあとがき

 見返りを求めない無条件の愛の趣旨通り、本書が、全ての人に無私の志で届いてくれることを切に願う。

 そのため、内容を変更せず営利を目的にしないという条件で、本書を自由に頒布し、現在利用可能な全てのメディアによって、全体あるいは一部を随意に複製することをこの場で許可し、その活動を後押しするものとする。

 皆の協力によって、輪が広がっていければと思う。霊性や愛のテーマに関して質問がある場合には、それが個人的なものでも一般的なものでも、遠慮なく聞いてもらえれば嬉しいし、可能な限り返事をしたいと思う。

 また、できるだけ多くの人々にメッセージが行き渡るように、本書を他の言語に訳してくれる、私心のない人達にも協力をお願いしたい。

 本の話を直接聞きたい人の数がある程度まとまって、君の町や村に僕らに行って欲しいと思う場合には、遠慮なくそう教えて欲しい。君の町や村が、他の国や別の大陸にあっても構わない。僕らのできる範囲で、要請に答えたいと思う。

 講演会をしても、依頼者側の費用負担は全くない。完全に無私無益の活動なので、旅費や宿泊費も僕らが持つ。誰でも興味のある人が、自由に無料で参加できることが条件だ。

連絡先:
ヴィセント ギリェム・プリモ Vicent Guillem Primo
ウェブページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com
(日本語サイト: http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es )
このサイトでは、電子書籍の形態で無料で本をダウンロードしたり、印刷版を要請したり、講演会の日程を調べることが可能だ。

君に、愛の全てをこめて。また会うときまで。

本書は、全世界の人々に贈る愛のメッセージだ。

 メッセージがどのようにしてもたらされたのか、また誰から伝えられたのかということは、重要ではない。問われるのはその内容だろう。

 これをどう扱うかは、各人の自由だ。無視しても、批判しても、検証しても、あるいは君自身の人生に適用してもらっても構わないが、君の心に届くように、真心をこめて書いたつもりだ。

 君が自分自身を知り、感情を目覚めさせてエゴを解き放つと共に、人生の目的を知り、自分に起きたことや今後起こる出来事を理解するために、役立てて欲しい。希望を持ち続け、他の人々への理解を深め、いつかは皆を愛せるように。また、自分が生きる世界を理解し、最も悲惨な状況からも最大の恩恵を引き出し、愛において成長できるように。

つまり、君が本来の自分になれて、自由で、自覚しながら真実の愛・無条件の愛を体験でき、そしてそれによって、更に幸せになってくれることを願う。
    
全ての愛をこめて。

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.

著者、ヴィセント・ギリェムは、スペイン、バレンシア大学で化学博士号を取得し、現在は、がん遺伝子の特定に関する研究をしている。個人的に自由になる時間を使って、無償でレイキ治療や全国講演を行うなど、無私無欲に活動している。本文転載その最終回おわり
飄(つむじ風)より転載
 
 
 
【本文転載その最終回開始】
別れ

 「今日は君をびっくりさせてあげよう」と、イザヤはある日、僕を見るなり言った。
 「へぇ、何でしょうか?」
 「今まで君がここにやって来た時は、いつも私しかいなかったね。我々は、そのほうが、君がもっと気楽に質問をし易いと思って、そうしていたのだ。だが、ここが、誰も住んでいない孤独な場所だとは思って欲しくない。君はもう、私を信頼してくれているし、この世界にも馴染めたので、他の者を紹介してもいい頃だと思うのだ。ついておいで。皆に紹介して、君に会いたがっていた友人と少し話をしよう」

 そしてどうやったのか分からないが、僕たちは、その景色の上を飛び始めた。

 上空から、その素晴らしい景色を眺めることができた。

 緑の美しい谷に点在した、半球体の小さな建物が見えた。何だろうと質問しようとして口を開く前に、イザヤが「我々の家だよ」と答えた。

 集落の中心には、ガラス張りに見えるもっと大きなピラミッド型の建物があって、そこから輝くばかりの白い光が出ていた。「あそこが、瞑想をするために集まる場所だ。我々は、霊的な教えを授かるために高次の惑星とテレパシーで通信し、後進の惑星とも、全人類に愛の教えを伝えるために交信するのだ」と、イザヤが言った。

 そして、その内部に入ると、完全に透明な壁を通して、中の様子を見ることができた。壇上に、輪を描いて座っている三十人ぐらいの人がいて、とても集中しているのが見えた。その瞑想では、各人がそれぞれの役割を担っているようだった。そのうちに、輪の真ん中に、二人の人の姿が形を現し始めた。一人は男性で、もう一人は女性だったが、非常に美しく、大変穏やかで心地の良い光のオーラに包まれていた。

 二人は、そこにいる人達と熱のこもった挨拶をし、何らかの言葉を交わした後、僕たちに近づいて来た。以前、イザヤのまなざしは透き通り、深い平和と愛の感覚を伝えてくれると言ったが、この二人のまなざしはそれ以上に深く、天使のように思えた。

 「こんにちは。私はベスタよ」と、女性の方が言った。
 「やあ、僕はジュノーだよ」、男性が言った。「もう一度君に会いたいと思っていたんだよ」

 「もう一度だって? 二人のことなど知らないのに。前に会ったことがあったとしたら、忘れる筈がないし」と、僕は思った。

ベスタ: 覚えてなくても、知らない訳じゃないのよ。

イザヤ: イエスのことが知りたかったんだろ? 二人は、イエスを良く知っているんだよ。知りたいことを聞いてごらん。二人は、私達とは長くいられないだろうから、時間を無駄にしないことだ。

イザヤ: 何も聞かないのかね? 恥ずかしがらないことだ。友達ではないか。

ベスタ: 思い切って質問ができないのなら、私が手伝ってあげるわ。イエスに、性関係も含めた全てを分かち合える女性の伴侶、つまり双子の魂がいたのか、を知りたいのよね。

 なぜ分かったのですか? と、僕は顔を赤らめながら答えた。

イザヤ: この期に及んでも、我々が思考を読めることに気づけないのかね。だが、心配するに及ばん。誰にも言わんからね、はっはっは。

ベスタ: 私が答えてあげるわ。質問の答えは、はい、よ。イエスには、性も含めて全ての愛を共有できる女性がいたし、もちろん今でも、その完全に似通った相手がいるのよ。それにそれは、イエスだけではないわ。彼と同じか、それ以上のレベルの人間だけが住む世界も存在していて、そこでもパートナーや子ども、そして性関係があるのよ。これが、霊的に進歩すると異性愛を放棄することになるのか、というあなたの質問への回答になったかしら?

 はい、とてもはっきりしました。

ジュノー: イエスが地上で、人生を共にする相手と巡り会えなかったとしたら、それは彼の双子の魂が、別の惑星で似たような任務を果たしていたから、その時期に一緒にいられなかったからなのだ。でも、その別離は一時的なものだった。

 イエスは、彼より進化が劣った女性とは、一緒になる約束ができなかった。そうしても、その女性には彼の使命が理解できず、執着によってあらゆる手段で彼の任務の妨害をしたであろうし、彼を失うことで非常に苦しむ結果になったであろうからだ。

 だがそれでも、彼が相手を探そうとしなかった訳ではない。若い時分は、まだ自己の使命を良く自覚していなかったので、イエスも大半の人と同様に、愛せる女性を見つけ、一緒になりたいと願ったことがあったのだ。

イザヤ: もっと質問をするかね、それとも、もう二人に帰ってもらってもいいのかい?

 はい、いつも知りたいと思っていたのですが、イエスは、彼の後にできたキリスト教や教会について、どう思っているのでしょうか。

ジュノー: イエスがここにいたとしたら、次のように言っただろう。

 教会や宗教を創る意図など全くなかった。まして、私の名・言葉・行いを使って創り上げた、私個人への信仰に基づく宗教など、なおのことだ。

 キリスト教は、人間の感情や自由を非常に抑圧しているので、愛の手本を示すどころか、それと最もかけ離れたものになってしまった。

 私を賛美し称賛してくれるように、と教えたことも頼んだことも決してない。神も、称賛を求めていない。神は、神自身が君たちを愛すように、君たちもお互い同士を愛して、幸せになって欲しいだけだ。

 私は、単に愛の教えを伝えるためにやって来た。私の生き方でそれを実践してみせて、君たちがそれを手本にして教えを取り入れて、幸福への道を見い出せるようにしたのだ。

 この愛の教えは、私個人のものではなく、霊的世界のもので、神から全人類への普遍的な教えだ。それを伝道したのが私であったことは、重要ではない。愛の叡智のある別の兄弟であったとしても、同じことなのだ。

 私の名や神の名において、どれほどの非道・殺人・拷問・辱めが人類に行われたことだろう! 互いに愛し合いなさい、敵を愛しなさい、と何百回となく言わなかっただろうか? 私の信奉者だと名乗る者たちは、一体私のどこに、そのような愛に反する行為の口実を見つけたのだろうか?

 愛の教えを世に示すふさわしい者になりたければ、祭壇や十字架や宗教遺物の前で、ひざまずくのは止めなさい。偶像を崇拝するのも、祈りを繰り返し唱えるのも、無意味な儀式も止めなさい。そのようなことをしても、愛ではないからだ。見返りを全く期待せず、威張らず、改宗させようとせず、謙虚に、苦しんでいる同胞に手を差し伸べるのだ。そうすれば、愛の使徒と呼ばれることだろう。

 私が示した愛の教えの手本に従わない者には、誰一人として、私の名や神の名を語る権利がないし、私や神の信徒であると名乗ることもできない。そういうものは、自分のエゴに追随しているだけなのだ。

 イエスが再び地上に生まれ変わったとしたら、人類になんと言うでしょう。

ベスタ: 最後に言ったことと、それ以前にやって来た時に言ったことと同じように「愛しなさい。お互いに愛し合うのだ。それだけが幸せになれるのだ。その他のことは、どれも重要ではないのだ」と言うでしょう。

 僕の人生でずっと疑問に思っていたことの答えを知る機会が持てて、とても恵まれていると思います。お陰様で、僕は、心を開いて感情を表すことができるようになり、自分自身の鎧と抑圧から解放されました。助けていただいたお礼に、何かしたいのですか。

イザヤ: 何も感謝する必要はないよ。逆に、時間を割いて熱心に話を聞いてくれた君に、我々が感謝しているよ。愛において成長したいと思っている弟を手助けできたことを、幸せに思うよ。

 それでも、お礼に何かしたいのですが。何がいいでしょうか。

ベスタ: 自分に、何がしたいのか聞いてみてごらんなさい。

 あなた方から教わったことを他の人にも伝えて、皆で共有する必要があるように感じているのですが。もしかしたら、僕に役立ったと同じように、皆の役にも立てるのかもしれません。

イザヤ: それなら、君自身が自分の質問に答えているよ。君が知り得たこと、経験したこと、感じたことの全てを集めて、君の兄弟達に見せてあげなさい。彼らに、無条件の愛の教えと、霊的世界の真相を教えてあげられるようにするのだ。
 でも、耳を傾けてくれる人がいると思いますか。
ジュノー: やろうと思うことを心からやってみること自体に、価値があるのだ。もし百万人に一人、このメッセージに耳を傾けてくれる人がいて、その人が感情を目覚めさせ愛の経験に心を開くことができたのなら、その価値はあったということなのだ。

 霊性に目覚めたいとは思っているのに、まだ眠ったままの人が、この世には沢山いる。内面で感じていることが、空想の産物ではなく現実なのだよと、同意してあげるだけで充分なのだ。君たちの世界では、霊性に関する真実と虚偽とがまだ混乱を極めているので、外部の世界には、その真相がなかなか反映されないからだ。
 でも、それをする能力が僕にあるでしょうか。

ベスタ: その能力があるのか、と問うのは止めなさい。全員に愛す力があるのだから、多くの人にその能力があるわ。             
 だけど、自分の日常生活での支障をいとわず、気楽さを放棄してまでそうしようと思う人は僅かよ。自分自身に、やりたいのか、やりたくないのかを聞いたほうがいいわ。したいと思うこと自体、すごい力なのよ。あなたにできないことは、私達が手伝ってあげるわ。いつも、あなたと一緒にいるわ。     

 メッセージの内容で、不快になって、僕に仕返しをしようと思うような人はいないでしょうか。
イザヤ: それは冒さなければならないリスクだ。誰も簡単だとは言っていない。皆が自分自身で覚醒できるなら、誰もこんな仕事をしなくてもいいだろう。

 だから、君自身の中でどちらの思いが強いのかを、はかりにかけて見なければならない。他者を助けたいという思いなのか、君への否定的な反応を恐れる気持ちなのか。したくないことで義務づけられることなどない。することは全て、自分のためにするのだ。君が自由にそうするのであり、我々に借りがあるからとは思わないことだ。

ジュノー: かつては、愛の伝道者は、火刑にされたり磔にされたりしたのだよ。でもそんなことは君には起こらない。

 誰かが君の言うことで不愉快になるのなら、喜びたまえ。君の言ったことの何かが、その人の内面に触れたということだからだ。魂と感情が 
目覚めて抹殺されてしまうのが嫌な、その人のエゴに、火がついたのだよ。

イザヤ: さて、もう二人は家に帰るためにここを去らねばならない。君も、肉体に宿る者の世界に戻らなければならない。

 ジュノーとベスタ: 友よ、また会う日まで。それまで、私達の愛の全てをこめて。

 そして、皆で溶け合うように抱擁し合って別れたが、それは余りにも鮮烈な感覚を伴う体験だったので、僕は決して忘れることはないだろう。

イザヤ: では弟よ、また会う時まで。直ぐに再会できて、対話を続けられるといいのだが。我々の家族に、よろしく伝えてくれたまえ。

 どの家族のことでしょうか。

イザヤ: どれだと思うのかね。全人類の家族にだよ。

終わり

つづく
魂の法則 その21 イエスの地上での使命  つづく(6)
 
 
*今生での行いで未来が永久的に決定され、悪者や異教徒には永遠の処罰と地獄が待ち受け、キリスト教徒と信者のみが救われて永遠の栄光を手にする、という信心についてはどのようなご意見ですか。

 それに関しては、魂の「進化の法則」と霊界でどのように物事が作用するかについて説明した時に、時間をかけて広く話した筈だ。

 だが、まだ充分明らかでないのなら、もう一度繰り返そう。実に全ての魂は不死であり、魂の目標は、霊性進化のより高次の段階に達するこ
とだ。従って、宗教的・政治的信心や人種やその他の資質を問わずどんな人間でも、進化の計画から締め出される者は一人もいない。すなわち、神やイエスや教会などを信じようが信じまいが、または人間的には大失敗であろうと、不死だという性質や、霊的に改善できる可能性を失うことなど絶対にない。よって、誰にとっても死は存在しないし、永遠に罰せられることもない。

 それに、皆の魂の過去を一人ひとりじっくり回顧したならば、過去生のどれかで、誰もが殺人者や人食い人種、またはその両方であったと分かるのだ。もし今、それを異常だと思うのであれば、それは霊的に成長できたからであり、自分の能力を試すために繰り返し転生したことで、犯した誤ちを修正する無数の機会を得たからである。もし、改悛の機会がなくただ一度の人生の行いで、将来が未来永劫にわたって決められるのなら、「地獄」はもう満杯で入れる者などいないだろうし、「天国」はサハラ砂漠よりも閑散としていることだろう。

*それでは、司祭の前での最期の告解が罪を緩和すると考えられていることに関しては...

 肉体を離脱した後の魂の行方は、生存中の行為でのみ決まるのだが、進化し改善する機会はいつでもあるので、そう決意した瞬間から「救われる」チャンスがある。だが、それは一朝一夕にはなされず、魂の心底からの変化を伴うものなので、反省し自覚して、否定的な態度を修正する時間が必要となる。

 また、霊的な負債や「愛の法則」に反する行為を清算するためには、自分の罪業を修復しなければならず、これには強い意志と時間とが必要とされる。

 このことから、司祭によって最期の瞬間に免罪されても、肉体の死後の魂の行方を変えることにはならないだろうと推察できるだろう。

*しつこくて申し訳ないですが、キリスト教徒と信者のみが救われるという信心に関しては、イエス自身が「わたしを信じる者には永遠の命が与えられる」と言って、救済されるのは信奉者だという信仰のきっかけを作ったのではないですか。

 イエスはそういう意味で言ったのではない。

 彼は、各人に霊的な変革を起こさせる秘訣を教え、命は永遠であり、それぞれが自らの運命の創作家であることを自覚させたのだ。現在の言葉に置き換えるのなら、「わたしの言うことと教えを信じる者は、命が
永遠であることと、『救済』(進化)は本人次第で、その人自身が自らの運命の担い手であることを自覚できるだろう」となる。

*では、キリストの信徒だけが永遠の命を手にするという信心は、何に由来するのでしょう。

 イエスが言ったことが誤って解釈されてしまったためと、教会が更にそれに、「教会の外に救いはない」と付け加えて改変してしまったためだ。
この場合ではキリスト教徒のことだが、一般的に、特定の宗派の信者のみが救われるという信仰は、その宗派の首長自身の考えに過ぎず、信徒の忠誠を確保するために利用される謳い文句の一つに過ぎない。

 もっと証拠が欲しいのかね?「教会の外に救いはない」というのはラテン語では “extra Ecclesiam nulla salus” と言うのだが、これは、イエスが地上に現れてから千余年も経った、1215−1216年に開催された第4回ラテラン公会議で、聖キプリアヌスが最初に発言したことを、教義に取り入れたものなのだ。

*でも、カトリックの信者の多くが、そう確信している筈ですよ。つまり、キリスト教徒だけが永遠の命を手にできるのであり、善い信者であり救済されるためには、教会の規則に従わなくてはならない、ということですが。

 いいかね、カトリック教会や他の多くの宗教が、善人とは従順であることに等しい、と君たちに信じ込ませたのだ。特に、教会の規則に従順になることだと思い込ませ、意のままに信者を扱えるようにしたのだ。

 しかし、慈悲深いのと従順なのとは全く異なることだ。規則に従順で、社会的に表面上は情け深い人であっても、個人的には我欲に完全支配された真の「悪魔」であるかもしれないのだ。規則や儀式をひどく愛好したのに隣人を全く愛そうとしなかったパリサイ人を、イエス自身も「白く塗った墓」と評し、そういう偽善を批判した。
 反対に、正直者で偽善を嫌う善人なのに、決められた規則に従わないがために、人から良く思われない者も沢山いる。そういう正直で誠実な人がいると、そうでない者との違いが歴然となるので、危険で蔑むべきだと見なされるのだ。

 ここにイエスの手本がある。イエスはユダヤ教会の権威者の命令には従順ではなく、勇敢で、自己の霊的な信念に首尾一貫していた。自分の考えを公に布教すれば山ほど問題を引き起こすと知っていたが、暴力を用いず真実と愛の力で、彼を黙らせようとした輩に立ち向かったのだ。多くの人もこれに追随した。

 歴史上には、支配者に「従順」でなかったために、ローマの競技場でライオンに貪られたり、異端や黒魔術の宣告を受けて焚き火で焼かれるなど、死に至る拷問を受けた正直者や善人の事例は山ほどある。しかしそれでも、彼らは、自由で愛すことができたのだから、幸せ者だと見なされるべきだ。進化の劣った同胞から苦しめられたので、きっとそれに見合う償いを受けたであろう。

 奴隷のような規則に従い、心と感受性を抑圧し、苦々しい無意味な人生を送って自己を嫌悪し、その上宗教に洗脳されて、不毛な苦悩自体が善人にさせてくれるのだ、という幻覚を信じる者の状況の方が、ずっと悲惨だ。内面では、自由で本当に幸せな者を羨んでいるのだ。中には嫉妬により、他者の罪悪感を弄んで、嫌な思いをさせようとする者もいる。罪悪感を利用することは、意志放棄をさせるために教会が良く使った手口なので、彼らも充分心得ているのだ。

*罪悪感を弄ぶ、とはどういう意味でしょう。

 自分の不快感を他人のせいにする、ということだ。

*弄ばれる人を助けるためにはどうしたらいいでしょうか。

 その人は最初に、その問題、つまり信条とする観念によって自分の意志と感情が実質的に失われてしまったこと、を自覚する必要がある。

 これは、それ自体がもう凄い進歩だ。それというのも、普通はこのような人は、自分が他者より上だと思っていて、自分の宗派で信用のない人の言うことなどを聞こうとしないからだ。それは、教会が、規則に従わない者は「罪人」で信じてはならない悪い仲間だと、思い込ませたせいでもある。

 次に、内面を見つめる努力をし始める必要がある。本当にしたいと思ってすることは何か、したいのに規則で禁じられてしないことは何か、したくないのに規則に強いられてすることは何か、などを自覚することから始める。

 その次のステップは、自由意志という自己の意志力を行使し始めることだ。つまり、定められた規則に逆らう必要があろうと、自分の気持ちに従って行動し始めるのだ。

*これまでの長い説明からは、全ての宗教は茶番であり、神の御心など全く反映されていない、と結論づけるべきでしょうか。

 そこまで極端なのは良くない。

 宗教の問題は、霊的に高次な教えを幾つか取り入れてはいても、全てを「神の御言葉」だと、一連の信念や規則をパッケージのように、論拠のないまま教義として受容することを信者に要請することだ。

 そこには思考の自由も、本当に心に響くことを選ぶ自由も、自分にとって嘘や的外れなことを除外する自由も、何を信じ何を信じないかを選択する自由もない。

 宗教の指導者たちは、随分長い間、隣人愛などの高次の教えを呼び水として、人を惹き付けてきた。魂の成長を阻む、その他の馬鹿げた付け足しの規則には、関心がない人がいたからだ。信徒になり、教会の権力者の叱責を怖れて、「神の御言葉」だとされるものを問いただす勇気のないまま、自称「神の代理人」に導かれてゆくと、少しずつ自分の意志を放棄するようになり、いつしか古書の規則に従って生きるようになるのだ。

 だが、それらの規則は、自己体験に充分な意味づけと満足のゆく答えを与えてくれるには時代遅れなので、信者はコルセットをきつく締められて、自由な自己表現を阻まれてしまう。意志を放棄をすると、神の御言葉の代弁者として勝手に立候補した者の意のままになるので、狂信に向かって進むのだ。

 現存するほとんど全ての宗教・哲学・イデオロギーには、嘘に混じって真実がある。自分の心が真実だと見なし進化に役立ちそうなものを、こっちから少し、あっちからも少し、と選び取って、自分自身の真実を見つけていくことは、各人の仕事なのだ。

*困難な状況にいる時に、生身の人間を信頼して助言がもらえないのであれば、その方法にはリスクがありはしませんか。

 霊的な真相の広い知識を有し、多くの転生と内面改善の努力によって愛の能力を更に発達させたために、霊性において他者を導いて助言できる人が君たちの中にいることは確かだ。でも、それらの人は仰々しいやり方を取らない。司教や聖人だなどと自分で名乗ったりはしないし、特別な衣装をまとうこともない。

 彼らは表面的には普通の生活を送っているが、内面を改善したいという強い意志と、他者を助けたいという強い思いがある。自己顕示も目立ちもせずに、無私で行動し、手本となって教える。そして彼らとの比較によって、道徳性がそれほど高くないことが明らかになってしまった者たちからの、多大な侮辱と中傷とに耐えなくてはならないのだ。

 霊的世界からの影響は、無神論者であろうと不可知論者であろうと別の宗派の信者であろうと、君たち全員の一人ひとりに感じ取られるものだ。だが、自分自身で決断するようにと、それはとても精妙になされるのだ。先ず一人ひとりが、それぞれの最良のガイドである良心の声を聴き、それから進みたい道を選び取るのだ。
【本文転載その21終了→その最終回に続く】
 
 
 

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