艮斎先生研究室

安積国造神社社家の三男に生まれた安積艮斎先生に関して調べております。

安積山の歌木簡発見10周年記念栄原永遠男先生講演

10月20日(土)午後3時から、安積高校旧本館(安積歴史博物館)で、安積山の歌木簡発見10周年記念栄原永遠男先生講演が開催される。
郡山市民オーケストラと郡山女声合唱団が、湯浅譲二・岡部富士夫両先生が作曲された2曲の「安積山の歌」を歌って彩りを加える。

チケット+歌木簡レプリカ 1000円 安積国造神社・市民文化センター・うすいにて販売中。

歌木簡レプリカだけ欲しい人は、500円。安積国造神社にて販売中。

高校生は無料で聴講できる。

歌木簡レプリカ(ヒノキ)はわずか1ミリの薄さで、長さが60僂發△蝓∈遒襪砲蝋眦戮糞蚕僂要る。また、難波津の歌と安積山の歌を薄いヒノキの両面に印刷するというのも、これまた高度な技術が必要である。
郡山の翼(木工)と東洋特殊印刷のコンビで製作した。

書は七海晧奘さんのご子息が、出土した木簡の字を真似て書いた。

栄原先生は大阪市立大学名誉教授、大阪歴史博物館長。地位が高く、多忙な方。昨年安積歴史塾有志で表敬訪問して、講演をお願いした。
いかめしい肩書きなのに、謙虚な方だ。

安積山の歌木簡は、はじめ難波津木簡として分類されていた。
ところが再調査で栄原先生が難波津木簡を素手でめくってみたら、なんと、裏側に安積山の歌が書かれていたのである。

この歌木簡が出土したのは紫香楽宮である。といっても誰も知らない名前だ。奈良時代、聖武天皇は仏教を極端に信仰し、仏都をつくろうとして、滋賀県の山あいの地を造成した。そこに都を遷したが、貴族達が反抗して、すぐに廃止された。

短い期間の都だったからこそ、年代が特定できた。万葉集の成立よりも古い745年以前の木簡だということになった。

安積山の歌は、万葉集巻16の「由緒がある歌」の部に収められている。
若い頃橘諸兄が陸奥に来て、宴席で采女経験者の女性が安積山の歌を詠じた状況が、詞書に書いてある。安積山の歌が万葉集の成立よりも古いことは、この記述でわかっていたが、それが木簡という一次資料で証明された。

紀貫之は、難波津の歌と安積山の歌を「歌の父母」と言ったが、「父母」が両面に書かれていたのだから、貫之の時代よりも150年も古くから歌の一対だったということになった。
「歌の父母」は、当時常識的な言だったわけだ。仁徳天皇の即位にかかわる歌と安積采女詠歌が並称されていたと思えば、すごいことだ。

当時、天下の大新聞が大きく歌木簡発見を報じた。安積の地にとって名誉なことで、郡山市民も大いに沸いた。故今泉正顕氏や丹治徹氏が郡山の文化のリーダーとして、歴史的な発見を市民に啓蒙された。

ところで、「安積山の歌に出てくる葛城王は橘諸兄ではなく、別な葛城王だ」などと万葉学者の契沖が言っているが、そんなことはない。
契沖は「伝へて云はく」というのは近い時代のことは言わないと認識していた。私は「伝へて云はく」の用例を調べてみた。そして重要な用例を見付けて、下記の論文を書いた。20日の栄原先生の講義冊子に、この論は掲載した。

安積山の歌の葛城王は、橘諸兄だからこそ価値がある。彼は万葉集編纂の言い出しっぺだし、安積親王のおそらく名付け親だし。安積采女と心を通わせた諸兄が後に名宰相として国政を司ったのだから。



契沖「非橘諸兄説」を覆す
                                          安藤智重

『万葉集』研究の中興の祖契沖は、「安積山の歌」の葛城王について、後の橘諸兄ではない、としている。契沖『代匠記』(『契沖全集』第四巻)に、
「葛城王。此葛城はいつれにか侍らん。伊予国風土記云。湯郡、天皇等於湯幸(中略)葛城王等也。天武紀云。八年秋七月己卯の朔乙未のひ四位葛城王卒。次に左大臣橘朝臣諸兄を初葛城王と名づく。此三人の中に天武紀に見えたる葛城王なるべきか。その故は伊予風土記は文拙ければ信じがたし。橘朝臣は大伴家持ことに知音なりと見えたれば、当時の事にて右歌伝云といふべからず。第六巻に橘姓を賜ふ時の御製を載せ、第八に右大臣橘家宴歌を載せたり。もし左大臣いまだ葛城王なりける時なりとも、左大臣の事なりと注すべしとおぼゆ」とある。

非橘諸兄説をとると、事績不詳の葛城王が安積郡を来訪したことになり、「安積山の歌」の歴史的意義が損なわれてしまうので、地元にとっては大問題である。そこで私は『万葉集』中の「伝云」(伝へて云はく)の全用例を精査した。その中で、次の歌(詞書)の存在に気づいたのである。

飯喫(いひは)めど甘(うま)くもあらず寝ぬれども安くもあらず茜さす君が情(こころ)し忘れかねつも                                    巻十六 三八五七
右の歌一首は、伝へて云はく、「佐為王(さゐのおほきみ)に近習の婢(まかたち)有り。時に、宿直(とのゐ)暇(いとま)あらずして、夫の君に遇ひ難く、感情(こころ)馳せ結ぼほれ、係恋(おもひ)実(まこと)に深し。ここに当宿(とのゐ)の夜、夢(いめ)の裏(うち)に相見、覚(おどろ)き寤(さ)めて探り抱(むだ)くに、かつて手に触るることなし。すなはち哽咽(むせ)び歔欷(なげ)きて、高声に此の歌を吟詠(うた)へり。因りて王聞きて哀しび慟(いた)みて、永く侍宿(とのゐ)を免(ゆる)しき」といへり。

※佐為王 三野(美努)王と県犬養橘三千代の子。葛城王(橘諸兄)の弟。東宮の首皇子(のちの聖武天皇)に教育係として侍す。天平六(七三四)〜七年頃、内匠寮長官。

この歌は、「伝へて云はく」として橘諸兄の弟(佐為王)に関わる伝聞を記している。安積山の歌と同じ巻十六所収である。この歌が存在することによって、「伝へて云はく」の内容が、遠い昔のことばかりでなく、近い時代のことを言う場合もあることが判明した。よって、契沖の「当時の事にて右歌伝云といふべからず」という見解は否定された。葛城王が橘諸兄であってもまったく問題がないことがわかったのだ。

契沖は、「左大臣(橘諸兄)の事なりと注すべしとおぼゆ」と言う。しかしながら、当時葛城王と言えば橘諸兄を指すということは、注記を付けなくとも自明のことだったのではないか。あるいは「安積」の地名は安積親王と関わるので、藤原氏に配慮して注記を付けなかったという可能性もある。

紀貫之の「歌の父母」の語は、難波津の歌が仁徳天皇・王仁、安積山の歌が橘諸兄・安積采女という、人物・詠み人の釣合を含んだものかもしれない。大昔仁政を行った仁徳天皇とかつて善政を敷いた橘諸兄とを対比させたと思うのである。史書に名が出ただけの葛城王では、仁徳天皇と比べるべくもない。また、詠み人の王仁と安積采女とも、異境の地の文化人として対比し得る。
ともかく、佐為王の契沖の非橘諸兄説は、『万葉集』三七五七番の歌の存在によって覆すことができた。このことは、ことに安積、郡山にとって大きな成果である。


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