私の郡山歴史考

福島県郡山市についてまとめてみます

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終わりに(2)

終りに(2)

郷土史ではなく地方史の観点が必要では?

地方の歴史についての研究はその地域の教育委員会や博物館の人たちが中心です。この人たちは実によく知っています。しかし、これはこれで問題があります。以前東京のある市立博物館で、江戸時代の新田開発のことを話していて、ついでに隣の市のことを聞いたことがあります。すると「そのことはその市に行って聞いてください」とピシャリと言われたことがあります。今のことでなく300年も前のことなのだからそこまで身構えなくてもよいのにと思いましたが、どうもこういう人たちは立場上、自分の県や自分の所属する町のことについては誠意をもって答えるが、よそのことにはかかわらない、あるいは知っていても話さないという不文律のようなものがあるようです。たしかに、「何々時代には、我が町は隣町に支配され人々は大変苦労した」などと言ったら隣町から苦情がきそうです。民間人なら、「それは私の見解です」ということで押し通せますが、公務員となるとそうもいきません。そのためこういう人たちによって書かれる郷土史はどうしてもその行政区域だけに限定され、他地域と関連させて見るとか日本全体の歴史から見るという視点が弱くなってしまいます。

それと自治体が作る郷土史の本は読んでいてつまらないというのが正直なところです。
図書館や歴史史料舘で市史や町村の郷土史の本を読むことがありますが、ページがくっついていることがよくあります。それはその本を読むのは私が初めてだからで、つまり、それまで誰も読んだことがなかったということです。そのくらい郷土史の本は読まれていません。全国にはたくさんの自治体があり、どの自治体も膨大な労力とお金をかけて郷土史の本を作っていますが大半はほとんど読まれていないと思います。

郷土史がつまらない理由は、その地域についてある程度の知識がないと読んでもなかなか理解できないということもありますが、郷土意識が強すぎて「お国自慢」になっていることもあるようです。その本を書いた人に郷土愛があればあるほど読んでいて白けてしまいます。ちょうど身内の自慢話を聞かされるのと同じような気分になります。

それと郷土史がつまらないのは「悪人」(?)が出てこないからです。歴史小説が面白いのは悪人が登場して物語を活気づけるからです。ところが、郷土史では善人や真面目な努力家しかとりあげませんから内容に深みがありません。もつとも善人を「悪人」にしたてあげると、必ず「うちの先祖はそんなにひどい人ではなかった。我が家に何か恨みでもあるのか」と文句を言われるに決まっていますからしかたがないところがあります。
地方の歴史は、実際は先ほどいったようにどこも同じようなものですから、自分住んでいる地方がよそとはちがうという独自性を強調するよりも、よその地域とそうはちがってはいないという、普遍性というか共通性をもっと重視して考えると広がりも出てくるような気がします。つまり郷土史ではなく地方史ということで見ることが必要だと思います。

江戸時代はむつかしい

それと、郷土史は室町時代が下限かなという気がします。明治維新も太平洋戦争も大きな社会の変革期だったように思っていましたが、それは社会の表面的な変化にすぎなかったようです。その点、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての変化はすさまじく、社会の上層の人と下層の人がそっくり入れ替わったばかりでなく、人々もそれまでは先祖代々同じ土地に住んでいたのが、この時期には、そこを離れて別の土地に移り住むようになりました。ですから、現在そこに生活している人とは関係ありませんから遠慮なく気楽に書くことができます。

しかし、江戸時代以降になるといろいろ具合の悪いことが出てきます。人間というのは意外と動かないもので、その町の少し古い家になるとほとんどが江戸時代までさかのぼります。ですから、江戸時代について少々深く立ち入ると、すぐにこれはあの人の家のことだとわかってしまいます。どんな人にも他人には知られたくないことがあるように、家にも他の人には知られたくないことはあります。かりに無くても、自分の身内や先祖のことをあれこれ調べられるのは誰だって気持ちのよいものではありません。調べる方もよい気持ちはしません。

たとえば、郡山町は江戸時代から明治時代に変わる時に大きな騒動が起きています。そして町の半分くらいが火事で燃えてしまいました。ですから明治時代の郡山町の風景は江戸時代の郡山町とは別のものですが、この騒動では近隣の人ばかりでなく、郡山町の人々も大勢郡山町の富商たちの店に押しかけ、略奪したり借金の証文を燃やしたりしました。そのため、少し踏み込んで調べると色々差し障りがでてきます。

この時期に一揆や打ちこわしが起きるのは全国的な現象で、埼玉でも武州一揆という有名な事件が起きています。ですから、郡山に限ったことではないのですが、なんとなく深入りするのにためらわれてしまいます。
実は江戸時代についてはもう少し深く書きたかったのですができませんでした。私は郡山を離れてもう長い年月が経っていますから、もっと冷静に客観的に書けるのではないかと思っていましたがそうもいきませんでした。

前からずっと思っていたのですが、ふつう郷土史はその土地の歴史好きな人たちの手で書かれます。しかし、そうしたやり方ばかりでなく、一度地方史の観点でその土地にまったくシガラミのない人の手で大胆に整理してもらった方がよいと思います。汚れた川は地元の人たちが大勢集まってゴミ拾いしたくらいではきれいになりません。川がきれいになるのは、大きな台風が来て堤防が切れるくらいの激流が川を洗った後です。地方の歴史もこういう台風のような力で一度見直すともっと充実するのではないかという気がしています。


以上で「私の郡山歴史考」は終了とします。このブログには著作権はありません。この画面のままパソコンの「コピー」操作をすると簡単にコピーできますから大いに利用してください。新しい視点で郡山の歴史を研究する人が現れるのを期待します。

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終りに(2)

通し番号 85

終りに(1)

郡山の歴史について1年以上にわたってまとめてみました。もちろん、まちがっているところや一人よがりなところはたくさんあります。が、それはともかくこれだけの時間をかければ、それなりの感想というものがあります。そこで、これらのことを述べてみます。

郡山の歴史も関東の歴史も同じ

まず、もっとも強く感じたことは郡山の歴史を大きく見て、郡山に特徴的なことは何もなく、関東の東京、埼玉、神奈川あたりの歴史とほぼ同じだということです。
実は私は古文書も読めませんし、それほどの深い歴史の知識もあるわけでもありません。そこで、このブログも最初は市史や県史の通史を読んで、後は推理というか推測をするということをしていました。
しかし、そのうち郡山の歴史も東京や埼玉の歴史の本に書いてあるのとほぼ同じということに気づきました。弥生時代から江戸時代まで大きく見て、郡山で起きたことは東京埼玉でも起きていましたし、東京埼玉で起きたことは郡山でも起きていました。
もちろん、関東でも鎌倉時代の鎌倉とか江戸時代の江戸を見ればもちろん郡山とは大ちがいです。しかし、鎌倉時代の鎌倉とか江戸時代の江戸というのは、その時代における特殊な空間です。関東にも東京西部の多摩地方とか埼玉県のように都から遠く離れた地方というのがあります。そういう所の歴史を見ると、だいたいが郡山の歴史とほぼ同じです。

古代の郡山は陸奥国の安積郡の一部でした。安積郡には郡衙があって、郡司が郡を統括していました。同じように東京埼玉の武蔵国には21の郡があり、それぞれの郡には郡衙があって郡司が統括していました。そして、郡司にはその地方の豪族が選ばれましたが、ライバルの豪族がいて豪族同士が争い、豪族の中には郡衙を襲撃した豪族がいて、郡衙跡からは郡衙の倉庫が焼き討ちにあったことを示す焼米が出土しています。この焼米は郡山郡衙跡からも安達郡衙跡からも出土していますが、関東でも同じように郡衙跡から同じように焼米が出土しています。つまり、古代には郡山でも関東と同じような郡司と豪族たちの争いがあったことがわかります。

また、室町時代の郡山地方には安積伊東氏や田村氏というような土豪的領主が割拠していましたが、東京埼玉でも武蔵七党とよばれる土豪がいました。そして、室町時代にはこの武蔵七党は由緒ある名家の血筋であること誇示し横の同盟を結んでいましたが、安積伊東氏や田村氏も同じようなことをしていました。

その後福島県には伊達政宗という武将が現れてかなり荒っぽいやり方で県域を瞬く間に領地にしましたが、まったく同じ時期に東京埼玉では北条氏政という武将が政宗と同じようなやり方でたちまち領地にしました。その最後は政宗は宮城県に移り、氏政は自害して滅亡しましたが、これも考えてみると、政宗も氏政も共に豊臣秀吉という権力者の手でその地から排除されたという点では同じです。

江戸時代になると郡山は宿場町になります。安積郡は二本松藩の領地になり郡山には陣屋が置かれました。そして安積三組という郡山組・大槻組・片平組という10ケ村程度の組にまとめられ、郡山大槻片平の3村には大名主ともいうべき割元名主がいて、それぞれの地域の行政を行っていました。しかし、これも埼玉あたりの藩の民政とまったく同じで、その組の割元名主のいる村の村名をとって組名にするということまで同じです。

また、宿場の郡山町には、街道沿いに短冊状の民家が並ぶ町並みができました。そして、今泉家という田村氏遺臣の草分け町人が町の名主になり、郡山に広い土地を持ってもっぱら不動産経営を行い、一方では代々郡山村(幕末に町に昇格します)の名主を務めて郡山宿の行政を担い、明治になると郡山町の初代町長になります。さらには、今泉家は家に伝わる文書を公開して郡山の歴史研究の大いに役立てています。

しかし、こういう郡山の宿場の様子も、江戸時代の初めに周辺の住民を集住させて作った甲州街道が通る東京の八王子宿などとほぼ同じです。
さらに郡山町のあり方も、例えば埼玉県の北に秩父という古い小さな町がありますが、こことほぼ同じです。秩父は忍藩の領地でしたが、忍城から離れているというので、郡山と同じように陣屋がおかれて陣屋支配でした。そして、松本家という武田の遺臣が草分け町人として広い土地を持って代々名主を務め、明治になると初代町長になっています。その松本家も家に伝わる膨大な文書を市や県に寄贈し、地域研究に役立てているというようにほぼ同じような歴史をたどっています。両者のちがいは、秩父は参勤交代の街道ではなかったので本陣がなかったということくらいです。

江戸時代の二本松藩では時代が経つと藩全体では人口が減少しますが、郡山町だけは異常に人口が増加し繁栄します。これも東京・埼玉と同じです。東京埼玉神奈川東部を武蔵といいますが、江戸時代の武蔵も江戸という巨大都市がありながら、江戸時代を通して見ると、元禄時代がピークでその後は人口が減少してしまいます。しかし、八王子や浦和(埼玉)や川崎(神奈川)などの宿場町だけは異常に人口が増加して繁栄します。したがって、郡山町の繁栄も旧二本松領という地域に限ってみると注目すべきことですが、東京埼玉の様子を見ると、郡山町のように急激に膨張する宿場町は現れるのはそう珍しいことではないのがわかります。

(なお、江戸時代に元禄後に人口が減少したのは東北地方のほか、東京埼玉などの南関東と大坂があります。東北の人口減少については、どの歴史の本も判で押したように冷害や重税、間引きの習慣など東北地方の自然環境の苛酷さと後進性を理由にあげますが、東京埼玉の人口減少を見るとそういうことではなかったような気がします。私は家族制度を考えましたが、もっと別な原因があるかもしれません。ぜひ誰か研究してみてほしいと思います。)

また、平安時代から鎌倉時代にかけては史料がないことも同じです。東京埼玉の歴史の本を読んでも、平安鎌倉時代のことは鎌倉時代の鎌倉以外はほとんど書いてなく、一種の空白の時代になります。これは郡山でも同じで、とにかく平安鎌倉時代にも人々がいたのはまちがいないが、ではその人々はどんな生活をしていたのかということはほとんどわかりません。

どこの地方にも「県史」とか「市史」があります。(唯一ないのがなんと東京です。東京都はお金持ちだし、学者も大勢いますから「都史」など簡単にできそうですが、不思議なことに「東京都史」はありません。その代わり「区史」や「市史」はたくさんあります)
 
こういう県史とか市史を見ると、どれも高名な学者が書いています。これら学者の人たちは自分の研究の傍らあちこちの郷土史編纂にかかわって大変だと思っていました。しかし、こういっては叱られてしまいそうですが、考えてみるとこの作業はさほど大変でもなかったと思います。どうしてかというと、どこの歴史もみな同じだからです。極端にいうと「神奈川県史」や「埼玉県史」の地名と人名を変えるとそのまま「福島県史」になるし、「郡山市史」も地名と人名を変えればそのまま「秩父市史」になるのではないかという気さえしいます。そのくらい郡山の歴史は東京埼玉の歴史に似ています。

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芭蕉と郡山(5)

通し番号 84

芭蕉と「おくのほそ道」

「おくのほそ道」の郡山と須賀川に関する記述については以上の通りですが、ついでに芭蕉にとって「おくのほそ道」がどんな意味をもっていたのかについて考えてみました。

芭蕉が「おくのほそ道」を書いたのは、たまたま東北・北陸の旅をしたら素晴らしかったので紀行文を書いたというのではなく、芭蕉ははっきり「おくのほそ道」という紀行文を書くために奥の細道の旅に出かけました。

芭蕉がいつこの旅を思い立ったかはわかりません。しかし、紀行文を書くということは、芭蕉はすでにその5年前から始めています。芭蕉が奥の細道の旅に出るまでの彼の旅と紀行文を見ると次のようになります。

「野ざらし紀行」 貞享元年(1684年)
江戸から東海道を経て郷里の伊賀へ。母の墓参の旅
「鹿島紀行」 貞享四年(1687年)
江戸から茨城の鹿島へ。月見と鹿島神宮参拝の旅
「笈の小文」 貞享四年(1687年)
江戸から伊勢、南紀、大坂、神戸
「更科紀行」 貞享五年(1688年)
名古屋から中山道を通り更科を経て江戸までの旅
「おくのほそ道」 元禄二年(1689年)

芭蕉はいうまでもなく江戸時代最高の俳人ですが、彼が他の俳人とちがうのはこの紀行文にあります。芭蕉以前の俳人は紀行文を書かず、芭蕉以後の俳人も紀行文は書いていません。この俳諧の紀行文を書いたというのが芭蕉の最大の特徴です。

芭蕉がどうして紀行文を書こうとしたかもよくわかりません。ともかく、江戸で俳諧師として自立するとまもなく紀行文を書いてみたいという気持ちが湧いてきたようです。

その芭蕉が強く意識したのは、平安時代に紀貫之が書いた「土佐日記」と鎌倉時代の阿仏尼の「十六夜日記」でした。芭蕉は、この二つの古典を意識しながら新しい紀行文に取り組みました。

最初の紀行文である「野ざらし紀行」の中で、芭蕉は「紀貫之・鴨長明・阿仏尼らがすぐれた作品を残してからは、その後の紀行文はみなそれと似通ってしまった。その日は雨が降り、昼頃から晴れて、どこそこに松が生えていた、あそこに何という川が流れていた、などということは誰にでも書けるが、そんなことを書いてもつまらない。中国の詩人、黄山谷・蘇東坡の詩のような珍しさ、新しさがなければ紀行文など書く必要はない」と言っています。

しかし、「野ざらし紀行」は出来栄えはよくありませんでした。こういうことを私が言うのも僭越ですが、掲載した句が多すぎます。それも旅の進行にしたがってただ句を並べたようで、地の文はその説明のようになっています。つまり句と地の文がうまく融合していないのです。

芭蕉の紀行文のスタイルが固まったのはそれから3年たった「鹿島紀行」からでした。そして、「更科紀行」を経て満を持して出たのが奥の細道の旅でした。

芭蕉がどうして東北・北陸を旅先に選んだのかもわかりません。東海道と中山道の旅は経験済みで、もうここしか残っていないということはあったとは思います。しかし江戸の北は奥州街道ですから、日光くらいまでなら片道2泊くらいで手軽に行けます。にもかかわらず、それまで江戸から北には一歩も出ず、その前の鹿島詣も江戸の東に旅先を選んだのは、やはり江戸から北は手つかずに大事にとっておいたという気がします。

元禄2年、芭蕉は奥の細道の旅に出ました。この旅は期待以上でした。たぶん芭蕉はすぐに、自分がとてつもなく大きなダイヤの原石を手にしていることに気がつきました。歴史の深さ、古典の広がり、景勝地の素晴らしさ。しかも、その三者が渾然と融合しており、それらが醸し出す豊かな旅情は、「土佐日記」や「十六夜日記」をはるかにしのぐものがありました。芭蕉は自分の役割を十分に自覚していました。それはこのダイヤの原石を一点のキズをつけることなく、最高の光を発揮する宝石に仕上げることだけでした。

芭蕉は終着地の大垣に着くと、さっそく「おくのほそ道」の執筆にとりかかります。そして翌年の 月には江戸にもどっていますから、この間に「おくのほそ道」の草稿を書き終えたようです。意外と時間をかけていません。それはたぶん、旅の中で「おくのほそ道」の大体は出来上がっていたからです。

おそらく、旅を続けながら芭蕉の頭の中は「おくのほそ道」で一杯でした。その日が終わればその日のことを頭の旅日記に書き、新しいページが加わります。するとそのことで前に書いたものを修正する。場合によっては思い切って削除する。奥の細道の旅は書くことが多すぎて、書き加えることより、前に書いたことを捨てることの方が多かったと思います。おそらく芭蕉の頭は、書いては削り、書いては捨てる、こういうことの繰り返しでした。このあたりは歌仙を一人で作るような作業でした。

題名の「おくのほそ道」は最初から決まっていました。この名称は「おくのほそ道」の本文中にある仙台近郊の道から取ったのかもしれません。しかし、そうではなく奥州街道の前身である中世の道、「奥の大道」をもじって芭蕉が作った造語かもしれないという気がしますがそれはわかりません。

おくのほそ道」の草稿は短い期間でできましたが、芭蕉はその後も推敲に推敲を重ねました。それは仮名一つとってもどの仮名を選ぶべきかというように実に細かいもので、ちょうど庭木の剪定をする植木職人が少し手を入れては休み、また手を入れては休むということを繰り返すのとほぼ同じでした。

そして、元禄7年(1694年)の春にようやく満足できる稿本ができました。芭蕉はそれを字の上手な門人の素龍に清書させました。そして、芭蕉自らが「おくのほそ道」の題を書いて完成としました。これが素龍本「おくのほそ道」です。

芭蕉はこの素龍本「おくのほそ道」を手にするとその1ケ月後の5月には伊賀に帰郷してしまいます。芭蕉の江戸生活は20年にもわたる長いものでした。しかし、芭蕉にすれば「おくのほそ道」が完成した以上もはや江戸にいる意味はなくなったようです。江戸には多数の門人がいました。芭蕉は旅人として江戸にやってくることはあっても江戸に住むつもりはなかったようです。芭蕉にとって江戸は戦場であり、「おくのほそ道」が完成した以上もはや江戸でなすべきことは何もなかったからです。

芭蕉は帰郷して半年後の10月21日に亡くなってしまいます。そして「おくのほそ道」が刊行されるのはその8年後の元禄15年でした。この間のいきさつはわかりませんが、どうやら芭蕉は「おくのほそ道」を出版して世に出すということは考えていなかったようです。このあたりの事情は非常に不思議な気がします。
とはいえ「おくのほそ道」はすぐに広まったようです。須賀川で芭蕉と一緒に歌仙を巻いた僧の可伸が、「おくのほそ道」を読んだ読者が庭の栗の木を見たいと次々やってくるので困り果てたということが江戸時代後期に書かれた「相生集」という郷土史に出ています。

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芭蕉と郡山(4)

通し番号 83

近世11-4

芭蕉と郡山(4)

「おくのほそ道」の郡山(2)

それから白河から仙台までを一つの物語とみなし、起承転結で考えると、須賀川と郡山は承の部分にあたります。ここでの中心は福島の先にある瀬ノ上と宮城県の名取です。

瀬ノ上は義経の忠臣佐藤兄弟の故郷です。一族の佐藤氏はここで頼朝の鎌倉軍と激しい戦いを交え、奥州藤原氏に殉じるように滅んでいきました。芭蕉の墓は彼の遺言で滋賀県の義仲寺にあります。ここは木曽義仲ゆかりの寺で、これからわかるように芭蕉には、いわば滅びの美学ともいうべき美意識があって、とりわけ名門名族の人たちの滅亡には強く心が打たれるところがありました。瀬ノ上の章段で、芭蕉はその気持ちを包み隠さず表現しています。芭蕉の感情の高ぶりがよく表れています。

それと名取は平安時代の文人貴族藤原実方の終焉の地です。この実方という人は三十六歌仙の一人ですが、書で有名な藤原行成と口論となり、天皇から「歌枕を見てまいれ」と言われて陸奥守に左遷されそこで亡くなった人です。

平安時代の風流貴族の願望に「罪なくして配所の月を見る」というのがあります。無実の罪で、つまり心にやましいところがないまま、罪を得て島流しにされ、そこで月を愛でてみたいということで、要するに菅原道真のようになってみたいということですが、この藤原実方という人は文字通りこの罪なくして配所の月を見た人です。芭蕉という人はこういう不運の人生にも強く心を惹かれる人でした。

「おくのほそ道」は場所によって文体を変えています。たとえば象潟は漢文調で、白河と松島や平泉は漢語を交えた文体です。そして大体はふつうの和文です。松島、象潟、白河、平泉で文体を変えるのは、ここが歌仙でいうところの二花三月だからです。

歌仙では 「花」という言葉を詠み込んだ句を2句、「月」という言葉を詠み込んだ句を3句、特定の場所で出すことが決まっています。これを二花三月といいます。「花」は華やかさの象徴、「月」は風雅の象徴で、全体の中にこの句をほどよく配置することで歌仙全体を華やかなものとし風雅を感じさせます。36句全部が華やかな句と風雅な句ではかえって全体を壊してしまいます。そこで、花は2句、月は3句と決め、この言葉が出る句も決めているのです。白河と松島や平泉はこの歌仙でいうところの花か月が出てくる句ということになります。それをはっきりさせるため芭蕉は文体を変えています。

その点、「おくのほそ道」の須賀川と郡山は「花」でもなければ「月」が出てくる場所ではありません。そのためふつうの和文で書いています。したがって、「おくのほそ道」の白河から仙台までの旅は、歴史と古典をめぐる旅。郡山と須賀川はその中で、瀬の上と名取で旅情が高まるまでのつなぎの章段ということになります。そして、安積山と安積の沼はそのつなぎの役を十分に果たしていると言えます。


安積山について

安積山については以前少し調べたことがあります。
先に安積郡は昔の郡山地方のことだといいましたが、そうなるのは平安時代中期になってからです。安積山の歌が詠まれた奈良時代には、安積郡というのは福島県中央部の広大な地域をさしていました。その後、二本松地方が安達郡となり、東部の阿武隈山地が田村郡として安積郡から分離し、郡山地方だけが安積郡として残りました。

このあたりは埼玉県でも男衾郡から比企郡が分かれ、入間郡から高麗郡と新座郡が分かれたのと似ています。そして、比企郡や高麗郡が旧郡の中でも、比較的開発の進んだ地域だったように、こういう場合は先進地が新郡として分離していきます。ですから古代の安積郡でも、実は郡山地方は開発が遅れた地域で、たぶん奈良時代にはあまり人は住んでいませんでした。したがって、短歌に詠まれた安積山はむしろ郡山以外のところを想定したほうがよいと思います。

この安積山の歌は万葉集の第16巻にあります。その題詞には、陸奥国にやってきた葛城王が国司の応対が無礼だったのに怒り、それを、当地の采女が山の井の水と称する水杯をかざしてこの歌を歌い、王の機嫌を直したとあります。万葉集の16巻は歌にまつわる興味あるエピソードを集めた巻です。それで、この話も安積山の歌が生まれたいきさつを述べたのではなく、険悪になった宴席を丸くおさめた采女の機転ぶりをとりあげたのだろうとする解釈を読んだことがありますが、たぶんこれが本当という気がします。おそらくこの歌は元々は都の歌で、安積山も畿内のどこかの山だったという感じがします。

この安積山の歌は、その後、「大和物語」で、家司に盗み取られた大納言の姫君がこの地にやってきて、絶望して死ぬ間際に詠んだ歌というように物語に脚色されました。そして、この物語も有名でしたから、いつしか安積山は陸奥国安積郡の山ということになってしまったのだと思います。

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芭蕉と郡山(3)

通し番号 82

近世11-3

芭蕉と郡山(3)

「おくのほそ道」の郡山(1)

再び「おくのほそ道」の郡山にもどります。須賀川を出発した芭蕉が郡山で宿泊したのは寄り道をしたからでした。たぶん当初は須賀川を出て本宮か二本松で宿泊する予定だったと思います。ところが、須賀川で阿武隈川の急流である乙字が滝を見物するように勧められ断りきれなかったようです。そこで乙字ケ滝見物に行きました。

しかし、それだけでは中途半端です。そこで阿武隈川を渡って善法院という天台宗の寺を見学し、見学を終えるとまた阿武隈川を渡って郡山に宿泊することにしました。曽良の随行日記を見ると、この善法院には連歌師の山崎宗鑑の書と雪村周継の絵があるというので行ってみたようです。雪村はこの地に住んだ室町時代末期の画僧です。雪舟ほど有名ではありませんが、水墨画では雪舟に次ぐ画僧として有名です。確か尾形光琳も模写しています。

それはともかく、芭蕉は乙字ケ滝と善法院に寄ったため郡山に宿泊することになりました。そして、翌日は相当早起きして旅立ったようです。1日で福島まで行っています。

ですから、途中まったく寄り道はしなかったと思います。安積山のあたりで花かつみを探したとありますが、これも事実でなく通過するだけでひたすら歩いたようです。

にもかかわらず「おくのほそ道」には郡山に宿泊したことは書いていませんし、乙字ケ滝を見物したことも善法院に立ち寄ったことも書いていません。その代わり、探しもしない花かつみを探したということになっています。ここで出てくるのは安積山と花かつみだけです。こういうフィクションは芭蕉が意図的にしたことです。

この郡山の叙述は、やはり「おくのほそ道」全体の中で考える必要があります。
先に芭蕉の旅は奥州街道の往路がゆっくりで帰路の北陸道が速足だと言い、これを能狂言の序破急の構成だといいましたが、実はこの序破急は能狂言だけでなく、俳諧の歌仙の作り方のことでもあります。つまり、芭蕉は「おくのほそ道」をちょうど歌仙を作るように書き進めたのでした。

歌仙では36句を大きく4部に分けます。句数でいうと6.・12・12・6です。芭蕉の旅を歌仙の4部にあてはめると、
出立〜那須  旅の始りと旅情を整える旅
白河〜仙台  歴史と歌枕を尋ねる旅
松島〜象潟  歴史と景勝地を尋ねる旅
酒田〜大垣  自己を見つめる旅と旅の終り
というようになります。(この分け方はやや無理があるかもしれません。とくに福井ではあちこちに足をのばしてまた新しい旅を始めたような印象を持ちます。しかし、これもたぶん大垣到着を晩秋にするための調整でした。)

この観点からすると、郡山は歴史と歌枕を尋ねる旅の一部ということになります。
歌枕というのは古歌に詠まれた地名ですが、単にそれだけでは歌枕とはいいません。歌枕とは、平安鎌倉時代の歌人たちがそこに行ったつもりでよく短歌を作るとか、本歌取りの本歌によく取られる古歌の地名です。福島県では、白河の関、安積山、安積の沼、信夫もじ摺りの信夫が有名な歌枕です。

安積山は万葉集の「安積山影さへ見ゆる山の井に浅き心を我が思はなくに」の短歌にある山で、安積の沼は古今集第15巻の巻頭歌「みちのくの安積の沼の花かつみかつ見る人に恋やわたらん」の短歌に出てくる沼です。郡山地方のことを昔は安積郡といいました。

安積山の短歌は古今集の序文で紀貫之が短歌の父母とした短歌ですが、鎌倉時代以降は安積山の短歌より安積の沼の歌の方が有名でした。鎌倉時代になると、安積は浅香と表記が変わり、それだけで優美な恋愛の世界を表す詩語として定着しました。後鳥羽上皇は自分を含め定家や俊成卿女ら歌の名手10人に「あさかの沼」という題で短歌を詠ませ、そのうち藤原雅経の「野べはいまだ浅香の沼に刈る草のかつ見るままに茂るころかな」を新古今集に載せています。また、明治時代には落合直文が短歌の再生を目指して結社を作りましたが、その名称は浅香社でした。芭蕉も奥の細道の旅に出る前に弟子に宛てた手紙で、塩釜の桜と松島の朧月、それと安積の沼の花かつみを見るのが楽しみだというようなことを書いています。

しかし、安積の沼で花かつみを見ることはできません。というのも、花かつみが何の花なのかは誰もわからないからです。花かつみは元々は真菰を指したようです。ところが、時代がたつにつれて、花かつみは真菰のような地味な花ではなくもっと華やかな花にちがいないということでさまざまな花が考えられ、やがて都会の詩人たちは都から遠く離れたみちのくという異境にだけ咲く神秘的な花というように空想していきました。つまり、花かつみは現実には存在せず文学の世界にだけ咲く花ということになったのです。
ですから郡山に来れば、花かつみについて何かがわかるということではありません。そして、芭蕉はこれらのことを十分承知していました。たぶん須賀川に滞在している時にも等躬たちとの間でこのことは話題に上っていました。ですから芭蕉がここで花かつみを探すはずはありません。
にもかかわらず、芭蕉が「おくのほそ道」で安積山のあたりで花かつみを探したとしたのは、郡山が歴史と歌枕を尋ねる旅の一部だったからです。

ただ、花かつみには花かつみの役割があります。それはスピードです。郡山の章段ではいかにも芭蕉が急
いで歩いているようです。実際その通りの旅でしたが、読む人にそれを自然な動きに思わせているのが花かつみです。花かつみを探していたから思わず時間が経ち、そのためにあわてて福島に急いだとなっていて非常に巧みです。

郡山の章段は駆け足で旅を進める必要がありました。それはその前の須賀川との関係です。須賀川では「四、五日留まった」と書き、歌仙のことも書きました。つまり、旅の流れが須賀川で中断してしまいました。そのためその先を速くする必要があったのです。

また歌仙の話になりますが、歌仙では全体に流れが必要ですが、それは渓流の流れのようでなければなりません。ある場所では瀬のように速く流れ、ある場所では滝のように強いインパクトを持ち、そうしてある場所では深い淵のように流れが止まります。こういう変化をつけることが重要で、大きな川の流れのように一本調子になるのを嫌います。須賀川はいわば渓流の淵にあたります。そこで、須賀川の先は瀬にならなければなりません。そのため、郡山宿泊のことも省略し一気に福島まで急いだというように記述しました。郡山宿泊をここで記述するのはふさわしくないのです。

実は芭蕉は乙字ケ滝では「さみだれは滝降りうづむみかさ哉」という句を詠んでいます。しかし、「おくのほそ道」にはこの句のことは載っていません。というのも、長期滞在した須賀川の等躬の元を出た後、またどこかに立ち寄るというのは文章の流れとしては具合が悪いのです。

それは、芭蕉が奥州街道沿いの小さな丘を安積山としたのも同じです。芭蕉が「おくのほそ道」で書いたため、今ではすっかり、ここが安積山ということになってしまいました。しかし、曽良も随行日記で述べていますが、この小さな山を安積山とするのはやや疑問があります。確かに芭蕉の頃から、郡山ではここを安積山とする説はあったようです。ですから芭蕉のまったくの創作ということではありません。しかし、このあたりの奥州街道は秀吉の頃に作られた新道で、その道沿いにある何の変哲もない丘を安積山とするのは無理があります。たぶん芭蕉もそういうことは十分わかっていましたが、この章段では奥州街道から離れるわけにはいかないというので、あえて奥州街道沿いのこの丘を安積山にしてしまったようです。

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