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ネガ整理して出てきたモノクロネガで2Lにプリントしてもらおうと写真屋さんにいったところ、6×7サイズフイルムからはキャビネサイズになりますとのことで一枚税込みで702円でした。いまどきモノクロプリント依頼する人は殆どいないんでしょう。ついでに35mmのモノクロネガ現像も依頼。これが税込みで837円。
少ない枚数を家で焼くのは費用がかさむので、一枚ずつ記録に残したいものを焼いてもらうことにしようかな。
この写真はペンタ6×7を買ったばかりの嬉しかった学生の時に練習がてら撮った元気な頃の大阪駅の旧4番線に停まるイゴマル。
この頃はまだEF58は夜行長距離急行や荷物列車などでゴロゴロいたので、半日も駅に張り込んでいれば飽きるほどやって来る感じだったのでフイルム節約のため、あまり沢山は撮らなかった機関車。
誰もカメラを向けない静かな昼下がりの1コマです。
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過去帳・国鉄
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川西池田駅〜尼崎港駅を結ぶ旧型客車の鈍行列車が昭和54年にSLやまぐち号が走り出した頃にもまだここを走っていました。 東海道本線尼崎駅と同じ駅名ですが、東海道本線や福知山線の駅より西側にあり、約5〜6分ほど歩いて土手を上がったところの無人駅の尼崎駅。
列車は朝夕の一日2往復だけでお客さんは僅か数名。
土手に上がる階段を登ると車掌さんから「乗りますか?」とよく聞かれました。
日常あった長閑なこの光景もとっくに過去帳入りになっていました。
尼崎港線・尼崎駅にて
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国鉄最後の蒸機の砦、北海道・室蘭本線には昭和50年まで1日70本ほどのSLが毎日走っていました。
ほとんどがD51貨物でしたがC57の牽く普通列車も室蘭〜岩見沢間で走ってました。
いつ廃止されるのか、さよなら運転はいつなのか・・。
前年の昭和49年に九州や本州もDL化されてしまい、あと残すは室蘭本線。気になってしょうがない少年みなみかぜは落ち着かない夏休みを過ごしていました。当時はネットもなくいろんな情報は鉄道雑誌が中心で、友だちも詳細情報を誰も知りません。あとは国鉄職員さんに直接聞くしかないので、思い切って岩見沢第一機関区に一か八か返信用の封筒を入れて、手紙を書いてみることにしました。
今になって思えば、どうやって住所を調べたっけ?? 確か本屋で国鉄の公務員試験問題集に全国の鉄道管理局一覧が載ってたので、そこに電話して住所を聞いたかもしれないですが、確かな記憶は残ってません。
宛名もただ機関区職員様と書いただけで、誰が見てくれるかも分りませんでしたが、なんと岩見沢第一機関区から手紙が届きました。
日付は昭和50年8月20数日の消印でしょうか。封書で切手は20円の時代だったです。
はがきは10円か7円だったか・・。
岩見沢機関区の方にみなみかぜが送った実際の質問文が、これ ↓↓
さすが、子どもの手紙。ただ聞きたい事だけを書いたメチャクチャな依頼文でしたが、ご丁寧にご返事いただき嬉しかったな。当時は子ども大人問わず写真を撮りに来る人に国鉄職員さんも鉄道公安官(現在の警察)の方々も好意的でしたね。わざわざ撮影者のために立ち入りが禁止されてる場所へ誘導してくださったり・・。
この手紙も、古き良き国鉄時代の大切な思い出のひとつとして、懐かしの切符と一緒に保管しています。
テレビのこのSL特集番組では、SLを降りた百恵ちゃんが苫小牧駅でファンに囲まれてますね。
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最近は昔の写真・8mmビデオ・ネガ等などの整理にも忙しく。
量が多すぎてかなり古いモノまで探し出すにはまだまだ時間がかかりそう。
特にアルバムに貼り付いている印画紙を剥がそうと試みましたが、RC系印画紙は比較的剥がしやすいけれど、バライタ紙は破れてしまいスキャンする前に駄目になったのも数点。カラープリントはメーカーによって落ち着いた発色、色褪せが激しいものまで様々デス。カラーに比べ、定着液をしっかり洗い流して処理したモノクロ印画紙は数十年経過してもバッチリいい状態で残ってます。
今回は学校帰りに撮った大阪駅の「北越」。この頃は同じ形のボンネット雷鳥が毎時、発車していきましたがその雷鳥に混じって1往復だけが新潟行き北越でした。本数が多すぎてまた雷鳥か〜、って感じだったのでフイルムが勿体ないから雷鳥はほとんど撮らなかったけど北越はいつもこのカーブで撮ってました。
本当は赤ヒゲのない181系「しおじ」を見るのが好きでしたが新幹線岡山開業後ぐらいに消えてしまい、いつの間にかこの赤ヒゲ車に変わっていました。
今改めて見てみると、この情景も懐かしい〜♪
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昭和50年の山陽新幹線・博多開業により、馴染みだった特急月光・はと・つばめ・かもめ・しおじなどが廃止され、呉線経由の急行音戸が特急に格上げされて新大阪〜(呉線)〜下関間をEF58の牽く特急安芸として運転開始されました。客車はみなみかぜの大好きな20系でした。出発時刻が遅く、区間も短いため車内はいつもガラガラで呉線内で下車する人にはメリットのある列車でしたが、急行から特急になり料金が上がっただけで座席車もなくなったので、寝台券買って乗る価値が薄れてしまい、結局は新幹線で行ったほうが安くなってました。大阪駅に行っても写真を撮る人は誰も居ず、貸切状態でした。昭和52年頃には24系になりましたが、利用率は上がらずガラガラ状態で次の53年のダイヤ改正で静かに廃止されていきました。
記憶では、臨時あさかぜ51号とあけぼのが、たしか最後の20系特急でしたね。撮っておいて良かった〜♪
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