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3月19日の昼ごろ、「品川区立大森貝塚遺跡庭園」を訪れ、 もう一つの記念碑を見てきた。 詳細は後述するが、およそ1ヶ月前に読んだ毎日新聞の記事のためだ。 「大森貝塚庭園」は、JR大森駅から大井町駅寄りに約600M歩いたところにあり、園内にはモース博士像,品川区とポートランド市(米メイン州 モース博士の生誕地)の姉妹都市提携記念碑や縄文時代についての説明の展示パネルなどがあった。 南東隅のJR線沿いに、もう一つの記念碑、土器のモニュメントをのせた「大森貝塚」碑が建っていた。 南東隅のJR線沿いに「大森貝塚」碑(以下「貝塚」碑という)が建っていた。 車窓からでも注意して見ておれば確認できるが、佐々木忠次郎の「大森貝墟」碑(以下「貝墟」碑という)の方が高く、目立つのでどうしても見落としてしまう。 この「貝塚」碑は昭和4年(1929)11月に大坂毎日新聞社長 本山彦一が発起人になって建てたもので、翌年に「貝墟」碑を建てた佐々木忠次郎も賛成人の一人として名を連ねている。 2月20日の毎日新聞の記事は、大森遺跡には2つの記念碑、「貝塚」碑(品川区)と「貝墟」碑(大田区)が存在し、その経緯を考察したものだった。 モースの発掘場所はどこか? 長い間混乱が続いたが、いまでは「貝塚」碑の方だとなっている。 昭和52年(1977)貝塚発掘にかんして地主と東京府などが交わした公文書が見つかり、それは「貝塚」碑の方をさしていた。 さらに、昭和59年(1984)〜昭和60年(1985)、「貝塚」碑付近の発掘でモース報告と合致する貝層が発見される一方、「貝墟」碑付近では何もみつかっていないからだ。 佐々木はなぜ別に記念碑(「貝墟」碑)を建てたか? 「貝塚」碑建立前に発掘場所をめぐる論議があったと推測される。佐々木の意見が採用されなかった。 それに対する怒り、自分の功績を顕彰などの意見があるが 両碑建立の5年近く前の「人類学雑誌」(1926年4月)の佐々木の記述から、佐々木は「貝墟」碑の場所がモース発掘場所と信じ切っていた。 混乱の種を蒔いたのはモース? 遺跡の位置は今日では報告書の重要ポイント。だが、モースは場所を詳しく書いていない。モースは発表間もなかった進化論の研究者。研究の鍵を握るシャミセンガイなどの貝類を採取に来日して、偶然貝塚を発見したに過ぎない彼にとって、「日本の東海岸」で十分と思っていたのかもしれない。 昭和30年(1955)両碑は国史跡になっているが、「貝墟」碑側の史跡指定解除の意見が出ているが、それより両方うまく利用してモースの功績を生かす方がよい、が多数意見だ。 しかし、来訪者を欺く懸念は残る。 「貝墟」碑]入り口に「国史跡 大森貝塚」の看板が立つ。が、「貝墟」碑横の説明板には、近くに別の貝塚碑もあるといった案内はない。 大森駅に近い方だけに、「貝墟」碑だけ見て帰る見学者がいるのでは・・・ |
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はを昨年6月やってしまっていたのだ!!!



はじめまして関連記事から来ました。
宜しくお付き合いをお願いします。傑作
2009/1/18(日) 午後 9:04
いいい
2009/6/28(日) 午後 6:24 [ いいいいい ]
歴史のある碑ですね。貝塚の碑もあるんですね。
2009/6/28(日) 午後 6:27 [ 最高 ]