|
最後の振舞い符号しければ、まことに賢才武略の勇士とも、かようの者を申すべきとて、 敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける (「梅松論」) 皇居前の楠木正成の騎馬像を見たからではないが、湊川神社に楠木正成の墓を参拝した。 JR神戸駅下車し、山側へ5分ほど歩くと、国道に面して建つ神社の神門に出遭う。 楠木正成は九州から攻め上る足利尊氏を迎え撃つため弟・正季(マサスエ)と共に出陣し、 寡兵で足利方の大軍に立ち向かい、三時(6時間)ばかりの戦ひに十六度まで揉み合ひたる(「太平記」)末、 ここ湊川の戦で敗死した。 時は延元元年(1336)5月25日である。 彼の働きと死は「智・仁・勇の三徳を兼ねて、死を善道に守る者は、古より今にいたるまで正成 ほどの者は未だあらず」と「太平記」はたたえ、 足利方の立場で書かれた梅松論でさえ、冒頭の様に賛辞を惜しんでいない。 約300年後、彼の生き様に感激した徳川光圀は元禄5年(1655)正成の墓をここに建立した。 神門の右側に墓所の入口があり、木陰の中、石畳の参道を行くと、楠木正成の墓前にきた。 碑面の「嗚呼忠臣楠子之墓」は光圀の筆にして、碑蔭に明の遺臣朱舜水の撰文を彫してある。 なお、墓建立の工事監督は助さんこと佐々介三郎宗淳だったとのこと。 闘ふべき手の定戦ひて、機すでに疲れければ、
湊川の北に当る在家の一村ありける中へ走り入り、腹を切らんとて舎弟正季に申しけるは、
「そもそも最後の一念によって、善悪生を拽くといへり。
九界の中には、何れのところか御辺の願ひなる。直にその所に到るべし」
と問へば、正季からからと打ち笑ひて
「ただ七生までも同じ人間に生れて、朝敵を亡ぼさばやとこそ存じ候へ」
と申しければ、正成よにも心よげなる気色にて、
「罪業深き悪念なれども、我も左様に思ふなり。いざさらば、同じく生を替へて、この本懐を
遂げん」と契って、兄弟とも指し違へて、同じ枕に伏しければ、・・・
(「太平記」巻第16 楠正成兄弟以下湊川にて自害の事)
|
全体表示
[ リスト ]


