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世界遺産清水寺に来た。山号は音羽山、北法相宗の大本山で、西国三十三所巡りの第16番札所である。 寺伝によれば、奈良末期の宝亀9年(778)に僧延鎮が開山し、平安遷都間もない延暦17年(798)坂上田村 麻呂が仏殿を建立したという。 その後幾度か焼失・再建を繰り返したが、現在の建物の多くは寛永8年〜10年(1631〜1633)徳川家光に よって再建されたものである。 本堂の舞台造り、名の由来となった「音羽の滝」、坂上田村麻呂の建立と十一千手観音菩薩像、 謡曲「田村」等、清水寺に係わる話題・説話伝承はよく知られているので、これ以上、くどくどと御託を 記すのは止めよう。 ただ、いつも観光客の多い寺であるが、今、ご本尊ご開帳中と言うこともあってか、なおさら人出がおお かった。 重文 室町後期再建 清水寺の正面に建つ。 仁王様は京都で最大級の3.65m(鎌倉時代) どちらも 重文 江戸初期再建 三重塔の高さは約31m どちらも 重文 江戸初期再建 重文 江戸中期再建 塔頭慈心院の本堂 衆生の願い求めにすぐに随って全てを叶えてくださると言う大功徳の随求菩薩を本尊としている。 奥の院から眺めた光景
三重塔、轟門、朝倉堂(いずれも重文 江戸初期再建)、本堂等が一望できる
国宝、 江戸初期再建 須弥檀に三基の厨子(国宝)があり中央に本尊の十一面千手観音菩薩が、左右の厨子には地蔵菩薩、昆沙門天が祀られ、その周りを二十八部衆、風神、雷神が祭られていた。 参拝の人々の熱気と奉納のろうそくの火のためか、堂内は非常に暑かった。 本堂の舞台は錦雲渓の断崖に高さ約12m、十六角周2.3mの巨大な欅の柱を立て、貫を縦横に通して楔で組み固めた懸造に構築している。 重文 江戸初期再建 構造、安置されている仏像は本堂と同じ。ミニ本堂と言う感じ 本堂の舞台から写した。 「奥の院にも懸崖づくりの『舞台』があった。檜皮ぶきの屋根が軽やかなように、舞台も小さく 軽やかだった。」 (川端康成「古都」春の花) 流れ落ちる清水は清めの水として尊ばれ、滝行の伝統を今にのこす。 柄杓で汲んで飲めば、左から勉学、金運、長寿に効くという。長蛇の列に飲むのをあきらめた。こんな根性では御利益にありつけそうも無い
清水寺の縁起については、「清水寺縁起」、「扶桑略記」延暦13年(794)の条、「今昔物語」第11田村将軍、清水寺を始建の語 等で知られている。 この中で「今昔物語」の記載が詳しいので、それより要約を記す。 大和国高市郡の小嶋寺の賢心(延鎮)は、夢の中で「南を去って北へ行け」と言うお告げを得た。 そこで賢心は、北に向かい新京(平安京)を見ようと思った。 ところが、淀川に金色の一筋の水が流れていた。 それを瑞相の現れと思い、その源を求め、流れを辿って行くと新京の東の山に入った。 やがて、山の中に滝があり、その滝の下に草庵があって年老いた人がいた。 賢心が問うと、「行叡という者で、200年間ここに住み、あなたが来るのを待っていた。 これから東国で更に修行しようと思っている。だから、あなたはここに住み、堂を建ててくれ。 この前の林は、観音を造るための木である」と言って姿を消した。 その頃、坂上田村麻呂は新京造営の役をしていた。 妻・三善高子は身ごもっていたので、妻に食べさせる為狩をして鹿を殺した時、不思議な水が流れていることに気づいた。 その水の源を訪ねると滝があり、経を誦ずる声が聞こえた。 こうして、田村麻呂は賢心に逢い、いきさつを聞いた。 田村麻呂の心にも殺生に対する悔恨の気持ちが湧いてきた。 田村麻呂は、家に帰り、妻に賢心に逢ったことなど語った。 すると、妻は、自分のお産の為に生き物の命を奪ってしまった。 後生のことを考えるとその罪は逃れたい。 家の材木で堂を造り罪を償おうと思う、といった。 田村麻呂はそれを聞いて喜び、白壁(光仁)天皇に賢心のことを奏上すると、度者(僧)を付け賢心を東大寺の戒壇院で具足戒を受けさせ、名を延鎮と改めさせた。 延鎮と田村麻呂は協力して伽藍を建てはじめ、高子も金色の十一面千手観音像を造った。 この寺は、まだ完成しないうちから霊験があらたかという噂が広まり、多くの人々から崇められるようになった。 今昔物語は、この寺が「今の清水寺と言う、是なり。田村の将監の建てたる寺也となむ語り伝へり」と結んでいる。 |
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