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金堂、講堂、食堂(ジキドウ)、五重塔といった中心伽藍から、西の一画に西院御影堂(大師堂)が建っていた。 同じ境内でありながら、観光客は急に少なくなって、静けさを感じた。
パンフレットによれば、弘法大師の住坊で、大師の念持佛・不動明王像(国宝)が安置され不動堂とも呼 ばれていた。 康暦元年(1379)焼失したが、その翌年には再建され、明徳元年(1390)には北側に大師像(国宝)を拝する ための礼堂と廊を加え現在の姿になった。 堂内には不動明王と大師像を祀られ、弘法大師信仰の中心となっている御堂で、緩やかな勾配の総檜皮葺 の屋根は、優美さにおいて境内のに建つ諸堂の中でも際立った存在だ。 北側 南側
大師堂の北西に鐘楼、南東に毘沙門堂が建っていた。
大師堂の南側にいくつかの石碑が並んで建てられていた。 そのうち、尊勝陀羅尼の碑と天降石は、石を撫でた手で体の悪い箇所を撫でると病が治ると言われている ので、頭、胸、肩、足などを触れて来た。顔と口はあきらめている。 本来は北野天満宮の宗像社のそばに嘉永6年(1853)比叡山の僧・願海が建てたもの、慶応4年(1868)の神仏分離令によってこの場所に移された。 大きな亀の背の上に建てられており、高さ3.5m、幅1.2mである。 この周囲を回りながら、亀の頭や手足などを撫でて、その手で自分の患部をさすると、万病に効くということで信仰を集めている。 森浩一の「京都の歴史を足元から探る[北野・紫野・洛中の巻]」によれば、題字は天台座主尊勝親王が書き、円文の中におさめられていた陀羅尼の梵字は魚山普賢院の宗淵が書き、文様の二頭の龍は蔵人所の冷泉為泰が描いた。 碑文には三蔵法師が経文を西域から持ち帰ったこと、その経文を高宗が宮中の蔵したこと、三蔵がそれらの経文を民衆のために遷してほしいと訴えたことなどを書いている。 高宗は梵字の教本だけを遷してくれたのでそれを翻訳したのが尊勝陀羅尼経である。 それを、弘法大師が写し取って日本に持ち帰った。 嘉永6年(1853)はちょうど比叡山の千日回峰行満願にあたっているので、それを記念してこの石碑を北野の聖廟に建立したという。 |
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