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久々に姫路の書写山圓教寺を参拝に出向いた。 圓教寺は、姫路の北部、書写山に建つ天台宗の寺院である。 梁塵秘抄にも「聖の住所は何処何処ぞ 箕面よ勝尾よ 播磨なる書写の山・・・南は熊野の 那智とかや」と謡われる古刹である。 康保3年(966)九州で修行していた性空上人が東の空の紫雲を見てこの地に草庵を開いたのが始まりと伝え られる。 以来、多くの人々の信仰を集め、僧侶の修行道場としても栄えたことから「西の比叡山」と呼ばれるよう になった。 JR姫路駅から書写山麓までは神姫バスで約30分、そこから(以前は小1時間かけて2本の足で登ったが) ロープエイで頂上に行った。季節的に参拝に一番よいシーズンの為か、参拝者は多かった。 仁王門から摩尼殿、3つの堂、奥の院ほか境内の堂宇という順序で境内を巡った。 仁王門 江戸時代築 天井には前後に2つの棟を造り、外の屋根と合わせて3つ棟造りとなっている三門一戸の八脚門 圓教寺は応永5年(1398)から明治初めまで女人禁制で、女性はこの先は入れなかった。 東坂麓の女人堂(如意輪寺)に札を納めたという。 昔、この石の上に乙天、若天の二人の童子が降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っている。 又、この石を弁慶がお手玉にした、と言われ「弁慶のお手玉石」とも呼ばれる。 なお、圓教寺に弁慶は「鬼若」の名前で約10年修行したと言われ、弁慶の学問所、弁慶の井戸、弁慶の机といった弁慶に所縁のあるものがあった。 本寺院で最大の建物・摩尼殿前に架かる石橋。天和6年(1620)姫路城主となった本多忠政が修理補修した 三十三所堂 西国33ヶ所霊場の観音様が祀られている。巡礼が広く庶民の間で行われるようになったのは江戸時代である。社会情勢や交通の不便な時代にあって誰でもが三十三観音に出会えるように各地に「うつし霊場」ができた。それを更にミニチュア化したもの。 (ー圓教寺2に続くー)
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