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善光寺表参道(中央通り)を南に下る。長野駅近くの「かるかや山」交差点北東角に苅萱道心・石童丸ゆ かりの寺で、絵解きをして下さる寺として知られる西光寺があったので寄ってみた。 参拝人は だけだが絵解きをお願いすると快くやって頂いた。約50分で「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」、「冥土の旅たち(十王めぐり)」、「六道地獄絵」を拝聴した。 なお、長野市には、苅萱道心石童丸ゆかり寺として西光寺のほか「往生寺」もあり、そこでも絵解き をして下さるそうだ。 正式には苅萱山寂照院西光寺。開祖苅萱(道心)上人 苅萱上人が正治元年(1199)に開山し、入寂後信照坊道念上人(幼名:石堂丸)がこの寺に来て、父の菩提のために苅萱塚を建立し63歳にて入寂した寺である。 苅萱上人と信照坊道念上人(幼名:石堂丸)が刻んだ二体の地蔵尊を本尊として安置している 高野山奥の院無明の橋で、苅萱道心が父を訪ねて来た石童丸と会った場面。 父苅萱上人は石童丸を我が子と知りながらも仏に捧げしこの身、道心が鈍っては、遂に親子の名乗りをしないまま、下山を促す。 本尊・苅萱親子地蔵尊 子授け、安産子育、家内隆昌の御利益のあるお地蔵様だそうだ。 苅萱道心石童丸御親子御絵伝 十王像 六道地獄絵 なお、絵解きが終わった時、外は既に暗くなっており、境内の苅萱塚、大師堂、朝日山大蛇の塚などを拝 観することが出来なかった。 今から凡そ800年前、九州6ヶ国の国守加藤左衛門重氏は、(本妻と妾妻の醜い本心を見た為、お家騒動が 持ち上がった為、周囲で先立だれた為とかにより)世の無常を悟り、京の黒谷に上り法然上人の弟子とな ったある夜、延命地蔵のお告げを受け、高野山へ入った。 国に残された千里御前は男子を出産し「石童丸」と命名。 石童丸13歳の春、父恋しさをつのらせ、母と共に黒谷へ、さらに高野山へと長い旅に出た。 当時、高野山は女人禁制、石童丸は母を麓の宿に残し、父を尋ねて山内に入り、三日三晩の後、奥の院 は無明の橋で、花桶を提げた僧に出会う。この僧こそ父・苅萱道心だった。 道心は、石童丸が我が子であると知るが、仏に捧げた身ゆえ名乗ることが出来ず、「尋ねし父は、すでに この世にない」と告げ、山を下るよう諭した。 山を下ってみると、母は長旅の疲れからもはや帰らぬ人となっていた。 泣く泣く国に帰れば、姉も亡くなっていた。 そこで、石童丸は再び高野山に上り、父と思う苅萱道心を師僧と仰ぎ、心照坊道念と名乗り、34年間修行 した。 ある日、苅萱道心は、善光寺如来に導かれて信濃の地に下り、一寺(今日の苅萱山西光寺)を建立。 一刀三礼の地蔵尊を刻み、14年間常行念仏に励み、83歳で大往生を遂げた。 道念は、父苅萱の往生したことを悟り、当山に移り住み、父の菩提安かれと苅萱塚を建立。 自身も一刀三礼の地蔵尊を刻み、親子地蔵尊として本堂に安置。その後も念仏に励み、63歳で極楽浄土に 赴いた。(西光寺冊子から)
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甲信越風土記
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だけだが絵解きをお願いすると快くやって頂いた。約50分で「苅萱道心石童丸御親子御絵


