|
菜種梅雨というのであろうか雨が数日続きやっと午後には止んだが雲が厚い。 ぜひ拝観したい仏様があったので、南禅寺北隣にある永観堂に足を運んだ。 永観堂は正式名称は禅林寺、浄土宗西山禅林寺派総本山であり、地元では「エイカンドウさん」の名で親 しまれている。 貞観5年(863)弘法大師の高弟・真紹(シンジョウ)僧都が開山し、清和天皇から「禅林寺」と言う名を賜った。 第7世永観(ヨウカン)律師の時大きく発展し、彼の名に因んで「永観堂(エイカンドウ)」の名で呼ばれる。 鎌倉時代、第12世静遍(ジョウヘン)僧都は法然の「選択(センチャク)本願念仏集」を論破しようとしたが出来ず、 念仏に帰依した。その頃から天台宗から浄土宗の寺に替わったらしい、と言われている。 堂宇は応仁元年(1467)の応仁の乱で殆ど焼失し、16世紀初頭に再建されたといわれる。 ただ、境内を廻ってみて、現存する最古の建物は、本堂にあたる「阿弥陀堂」で慶長12年(1607)豊臣秀頼 により大阪の四天王寺から移築したものだった。 しかも、来年の法然上人800回大遠忌に備えであろう、古方丈、阿弥陀堂の修理が行われていた。 江戸時代末期の建物、高麗門と呼ばれる形式。 庫裡である。 鶴寿台横の玄関からはいる。寺伝では永正年間(1504〜1511)築ということだが、実際は江戸時代の建物らしいとのこと。釈迦三尊像を安置し、各部屋は「松鳥図」や「群仙図」などの華やかな襖絵で飾られていた。前には、盛砂、唐門、南側に悲田梅、茶室があった。 また、釈迦堂の奥にある瑞紫殿には「火除けの阿弥陀」といわれる阿弥陀如来坐像像を中心に、愛染明王坐像、不動明王立像が安置してあった。 なお、「火除けの阿弥陀」と呼ばれるのは、応仁の乱で諸堂が焼けても、この像は右手を焦がしただけだったことによる。 唐門は勅使の出入りにつかわれた勅使門。釈迦堂との間に、小判型に盛り、市松模様にあしらった盛砂を踏んで身を清めてから中に入ったという。 永観律師は、境内の梅ノ木に実がなるのを待ちかねて、貧しい病人に施したと言われる。その梅の木は、いつしか「悲田梅」と呼ばれるようになった。 方丈の南の庭隅に設けられていた。壁越しの大きな建物は御影堂、左手の白い壁は千仏堂。 千仏堂は蔵造りの建物。入口には山越阿弥陀図(国宝)の縮小複製が、奥には佐久間顕一画伯の「千躰合掌童子の図」、「雪中合掌童子群像の図」が展示してあった。 山の斜面を這う様に、開山堂に上って行く階段と廊下。龍が伏せているような形から、この名で呼ばれる。室町時代につくられ、現在のは昭和になってからの改築。当初から釘一本も使われていないという木造建築の粋といわれている。 |
全体表示
[ リスト ]


