|
炎天下の阿部野筋を、日陰を拾いながら「播磨町」から「松虫」方向に歩いていた。
すると、北畠公園という小公園の北隅に北畠顕家(キタバタケアキイエ)の墓があった。
室生寺の境内に伝北畠親房の墓があったことを思い出し、寄って参拝した。顕家は親房の長男だ。
鉄製のフェンスに囲まれた廟所の中央に墓石が建っていた。
墓には「別当鎮守府大将軍従二位行権中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」と彫られており、前には花が手向けられていた。
周囲の木々の木陰になっており、こんな暑い中にも係わらず涼しげであった。
200m西にある阿倍野神社が管理しているようで、なにやら祭礼があるらしく廟所の周囲に多くの提灯が吊られていた。
人影がなかったので、何の祭礼か確認出来なかった(後で阿倍野神社の夏祭りと分った。)が、墓が大切に守られているようで嬉しく思いながらここを後にした。
北畠顕家(キタバタケアキイエ)は、南朝方に多い悲運の武将の一人だ。摂関家に次ぐ精華家の流をくみ、享年21歳で討ち死にした悲運さと貴公子振りから、「花将軍」と謳われたという。(ここで平成3年のNHK大河ドラマ「太平記」で顕家をゴクミこと後藤久美子が演じていたのを思い出した。)
北畠顕家は、後醍醐天皇を補佐した北畠親房の長男で、元弘3年(1333)鎌倉幕府が倒れ、建武の中興がなると、16歳の若さで陸奥守に任ぜられ、義良(ノリヨシ)親王(後の後村上天皇)を奉じ、父親房と共に、奥州に下向した。
建武2年(1335)鎮守府将軍に任ぜられた。
しかし、その頃足利尊氏が後醍醐天皇に叛し、京に攻め上ったので、顕家は奥州・関東の軍を率いて西上し、建武3年(1336)尊氏を破り九州へ敗走させた。
京を確保した後、奥州に戻ったが、尊氏は九州で勢力を盛り返し、再び京へ攻め上ってきた。
足利尊氏は楠正成を湊川で戦死させ、京に侵攻し光明天皇を立てたので、後醍醐天皇は吉野に逃れた。所謂南北朝の始まりである。
顕家は再度奥州を出発し、伊勢、奈良と進撃し、足利尊氏方の高師直の軍勢と摂津で対戦し、さらに天王寺阿倍野と転戦したが戦利あらず、次第に押され石津の戦で遂に戦場の華と散った。
墓は太平記などの伝承により、江戸期の学者並河誠所がそれまで「大名塚」と呼ばれていた塚を北畠顕家の墓と比定し、享保年間(1716〜1736)現在の墓碑を建てられたものだ。
|
全体表示
[ リスト ]



