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急に空が曇ってきた。昨日のことが頭をよぎる。東照宮では、天気の方を気にしながら巫女さんのガイド で境内をまわった。 元和2年(1616)に没した徳川家康は当初久能山に葬られたが、遺言により翌年日光に改葬され、朝廷から 東照大権現の名が与えられ「東照社」として鎮座した。 正保2年(1645)には宮号を賜り「東照宮」と呼ばれる様になった。(単に「東照宮」と呼ぶのが正式である が、各地の「東照宮」と区別する為「日光東照宮」と呼ばれることが多い。) 2代将軍秀忠が造営した社殿は質素であったが、現在見る社殿群は3代将軍家光が行った「寛永の大造替」 によるものだ。 寛永13年(1936)造営総責任者・秋元但馬守泰朝のもと、延べ454万人を動員し、僅か1年5ヵ月の工期で完 成させたものだ。 費用は金56万8千両、銀百貫匁、米千石を要し、全国から一流の工匠を集め、技術の粋を尽くして現在の ような姿になった。 社殿群は平成11年(1999)世界文化遺産に登録された。 元和4年(1618)筑前藩主黒田長政が奉納、重文 高さ約9m、一見しただけでは分らないが左右の柱の太さが10cmほど違う。 「東照大権現」の額は畳一枚分の大きさだとか。 五重塔 家康の33回忌にあたる慶安3年(1650)に小浜城主酒井忠勝が奉納したが、火災により焼失。現在のものは同藩主酒井忠進により文政元年(1818)再建、重文。初層の軒下に十二支の彫刻が施されている。 重文、軒下には唐獅子やバクなど82の鳥獣花木の彫刻が施されている。
仁王像
表門の左右に高さ4mの仁王像(阿吽形)が安置されている。明治4年(1871)の神仏分離で、明治30年(1897)まで太猷院(タイユウイン)に移されていた事があった。 表門をくぐると正面に三つの校倉造り風の建物が鉤型に連なる。 三神庫と呼ばれ、向って右から上神庫、中神庫、下神庫といい、百物揃千人行列と呼ばれる壮大な渡御奉仕者の装束1200人分が収められている。 上神庫の妻(側面)には狩野探幽が想像して下絵を描いたとされる象を飾る。 三神庫の周りを含め、境内には多くの石燈籠があったが、いずれも諸大名の寄進によるもの。 手前の女性はガイドしていただいた巫女さん。 |
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