ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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就天満天神廟 会文士 献詩篇(天満天神廟に詣で、文士が会して詩を献ずる)

以其天神 為文道之祖 詩境之王也(天神は文道の祖、詩境の王だからである)
                              慶滋保胤「寛和2年北野天満宮願文」

「天神さん」こと北野天満宮の境内を巡る。

境内には多くの境内社や記念碑的なものが多くあった。

ところで、北野天満宮の由来を整理しておこう。

右大臣として重用された菅原道真は、いわれのない讒言により、太宰府に配流され、延喜3年(903)太宰府

で没した。

その後,京都で相次いで起こった災害が起きた。

まず、延喜8年(908)道真左遷を画策し、抗議の宇多法皇を門前で阻止した参議の藤原菅根(フジワラノスガネ)が

雷に撃たれて死亡。

次いで、延喜9年(909)張本人の左大臣藤原時平が39歳の若さで死亡し、道真のたたりとする噂がまことし

やかに広がった。

延喜13年(913)策略に加担し、道真の代わりに右大臣となった源光(ミナモトノヒカル)が狩猟中に沼に落ちて死ん

だとされ遺体すら発見されなかった、という不可解な死に方をした。

その後も疫病は蔓延し、皇族にも及ぶ。

延喜23年(1923)醍醐天皇の3女慶子内親王、ついで参議藤原兼茂、皇太子の保明(ヤスアキラ)親王が21歳の若さ

で死亡し、遂に延喜から延長と改元した。

天下庶人にして悲しみ泣かざるはない。その声は雷の如く世をあげて云う

菅帥(菅原道真)霊魂、忿を宿してなすところ」(日本紀略)として道真の怨霊のなせるところとした。

朝廷は、菅原道真の左遷の詔を破棄し元の位に復すなど、道真の霊の慰撫に努めたが、なお威をふるっ

た。

延長3年(925)皇太子・慶頼(ヨシオリ 保明親王の子)が5歳で死亡。  

延長8年(930)清涼殿に落雷し、大納言藤原清貫が震死、右中弁・平希世(タイラノマレヨ)が顔面など大火傷しそれ

が元に死亡。その他多くの死傷者を出した。

それを気にした醍醐天皇も病の床に伏し、同年遂に崩御した。

(道真を左遷した報いで、醍醐天皇は地獄に落ちたと思われたことが「十訓抄」などに述べている。)

ところで、自分の権力拡大に道真の怨霊の噂を利用した人物がいた。

藤原時平の弟・忠平である。

藤原時平没後、忠平は、時平の子供ではなく、自分の系統を藤原氏の嫡系とするために動く。

菅原道真排斥の中心にとなった時平を悪人だといって、時平の一族を呪われた家とするとともに、道真の

怨霊の噂はエスカレートしていった。

そんな中、天慶5年(942)右京7条4坊に住む巫女・多治比文子(タジヒノアヤコ)に北野に祀れとの道真の霊の宣

託があった。

そこで文子は自宅の近くに小さな祠を構えた(これが現在のお旅所となっている)。

一方、天暦元年(947)近江比良宮の禰宜・神良種(ミワノヨシタネ)の子で7歳の太郎丸にも、火雷大神が北野辺り

に移座したいとの託宣があった。

ここに神(ミワ)と文子が協力し、北野の朝日寺の僧・最鎮と計って小さな祠を設けたのが、北野天満宮の始

まりと伝える。

天徳3年(959)藤原師輔(モロスケ 時平の弟・忠平の子)がその祠を大がかりな神殿に改めた。

この様にその後、次第に社殿は整備され、永延元年(987)初めて勅祭が行われ、一条天皇より「北野天満

宮天神」の神号が贈られた。

さらに、菅原道真に正暦4年(993)5月に正一位を追贈し、十月に太政大臣の称号を与えた。

一方、当初雷神・天神と結び付けられた道真は、やがて学問神とされていった。

もともと、道真の怨霊を怖れるどころか、道真を学者としての才能に敬服していた人々がいたので、学問

神とみなされるようになるのは早かったようだ。

例えば、「池亭記」や「日本往生極楽記」を著した慶滋保胤(ヨシシゲヤスタネ)は、寛和2年(986)北野天満宮に

冒頭の様な漢文の願文を出し、そこで道真を「文道の祖、詩境の王」と讃えている。

近世にはしばしば火災に見舞われ、現在の建物は豊臣秀頼により再建されたものを主にしている。

また、天正15年(1587)秀吉が催した大茶会(北野の大茶会)や慶長8年(1603)出雲阿国が社頭で歌舞伎踊

りを初めて興行したことから歌舞伎発祥の地としても知られる。


イメージ 1 文子天満宮
天慶元年(847)道真の御霊が現在地に移された後、文子の住居跡を社殿に造り替え「文子天満宮」と称せられたが、やがて西の京に移され、更に明治6年この場所に遷座された。



イメージ 2 伴氏社(トモウジノヤシロ)
大伴氏出身の道真の母を祀る。
石の鳥居は鎌倉時代の作で、台座に刻まれた蓮弁が有名(京都三珍鳥居の一つ)



イメージ 3 絵馬所
多くの古い絵馬が掲げてあった。


イメージ 4 イメージ 5
                         絵 馬


イメージ 6 御土居の紅葉碑
豊臣秀吉が長い戦乱で荒れ果てた京の都市改造の一環として、外敵の襲来にそなえる防塁と鴨川の氾濫から市街を守る堤防として天正19年(1591)土塁を築いた。それが御土居である。そのほとんどが江戸時代に取り壊されたが、一部は北野天満宮境内の西、天神川沿いに残っている。
そこに約250本の紅葉が植えられていて、11月初旬から公開されている。
碑は茶道裏千家今日庵寄贈のもの

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