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(1008年11月1日 敦成親王の五十日の祝いが行われた際) 左衛門の督 、「あなかしこ このわたりに わかむらさき さぶらふ」 とうかがひたまふ 源氏に 似るべき人も見たまはぬに かの上はまいていかでものしたまはむと 聞きゐたり ( 紫式部「紫式部日記」寛弘五年霜月のついたちの日) 梨木神社の寺町通りを挟んだ東側に廬山寺(ロザンジ)が建っていた。 廬山寺は日本廬山と号する天台圓浄宗の大本山で、正しくは「廬山天台講寺」という。 天慶元年(938)比叡山第18世座主慈恵大師良源(元三大師)が船岡山南麓に開いた與願金剛院に始まる。 寛元3年(1245)法然上人に帰依した住心坊覚瑜(カクユ)が出雲路に廬山寺を開いた。 この2ヶ寺を兼務した廬山寺第3世明導照源上人によって廬山寺を與願金剛院に統合し、円、密、戒、浄の 四宗兼学道場とし、名も廬山寺とした。 その後、応仁の兵火に遭い、また信長の比叡山焼き討ちにも遭遇するが、正親町天皇の勅命をうけ天正元 年(1573)現在地・紫式部邸宅址に移転した。 当地は、紫式部の曽祖父・中納言藤原兼輔(877〜933)から伯父・為頼、父・為時と伝えられた広い邸宅 だった。 それは鴨川の西側の堤防に接して営まれていたため「堤邸」と呼ばれ、それに因んで「堤中納言」の名で 知られていた。 紫式部は百年ほど前に曽祖父・兼輔が建てた「旧い家」で一生の大部分を過ごしたといわれ、この邸宅で 藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘(かたこ、大弐三位)を育て、「源氏物語」や「紫式部日記」を 執筆した、といわれている。 「紫式部日記」寛弘五年(1008)霜月のついたちの日 の条に「若紫」、「源氏」などの記述があり、 源氏物語がすでに宮中で読まれていることが確認できることから、2008年の京都では「源氏物語千年 記」として大々的観光PRをした。 その際、ここも紫式部所縁の地として賑わったことだろう、と人気の少ない境内を見渡しながら思った。 廬山寺寺門 寺町通りに面して2つの門が建っている。北側の門は元三大師堂正面に位置し、南側の門は慶光天皇廬山寺陵に通じていた。 本尊元三大師(良源)のほか毘沙門天(伝聖徳太子作、京都七福神第3番)、薬師如来、不動明王等を安置 源 氏 庭 御内仏殿(本堂)西側に作庭されている。苔に覆われた土の部分を所々に配し、後は一面に白砂を敷き詰めた庭で、平安時代の庭と云うより禅寺の庭という感じだ。中央に「紫式部邸宅址」の石碑が建っている。今は咲いてい無いが桔梗が有名だ。 なお、本堂は寛政6年(1794)光格天皇が仙洞御所の一部を移築し女院及び閑院宮家の下賜を以って改装されたもの。本尊は元三大師自作と伝えられる阿弥陀三尊像 紫式部と娘・賢子(かたこ、大弐三位)の、小倉百人一首に採用されている馴染みの和歌が刻まれている。
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