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京都大内ハ千余年 歴朝ノ皇居ニ候処戊辰 御東幸後僅八九年之間既ニ 廃堕之状ニ至リ九門以内モ稍荒 蕪ニ赴候形況今般親ク 叡覧被遊深ク御嘆惜被為在候依 之特旨ヲ以本年ヨリ明治二十一年まで 毎年内庫之金四千円被給候条 其府ニ於漸次保存之方法ヲ設ケ 永ク旧館ヲ不失様可致候此旨 御沙汰候事 (大内保存御沙汰書) 京都御苑は、東側は寺町通り、北側は今出川通り、西側は烏丸通り、そして南側は丸太町通りに囲まれた ほぼ長方形(東西約700m、南北約1,300m)である。 もともと約200軒の公家屋敷が並ぶ公家町であったのだが、東京遷都により寂れていたのを、明治10年(18 77)1月およそ8年振りに戻られた明治天皇はsの様子に深く哀しまれ、御所保存旧観維持を命じられた。 それ以降漸次整備されたのが京都御苑である。 なお、その時の大内保存御沙汰書(のレプリカ)が京都御苑内の閑院宮展邸跡資料室に展示してあった。 京都御苑の周囲の石垣はその時築かれたものである。 御苑の周りには古めかしい9つの門が道路に面して建っている。 以前からその位置にあったのかと思ったが、幕末の慶応年間(1865〜1868)の地図と見比べてみると、 位置や向きが違うものが若干ある。 御苑整備の際、若干位置が移され、又向きも90度変わったようだ。 幕末の京都御所周辺図はここをクリック。 3つの東門のうち、南にある門。 寺町通りに面している 奥の築地塀は仙洞御所 3つの東門のうち、中央にある門。 寺町通りに面している 門前に梨木神社が鎮座している。 幕末頃は150mほど奥(西)にあり、向きも90度違っていた。 奥の築地塀は仙洞御所 門の名の由来は、平安時代、清和天皇が譲位後住んだ「清和院」がこの辺りにあったとされることから 3つの東門のうち北にある門 唯一の北門で、今出川通りに面している 4つの西門のうち最も北にある門 烏丸通りに面している 幕末頃は50mほど奥(東)に建っていた。 蛤御門 と 柱についている弾傷らしき跡 4つの西門の一つで烏丸通りに面している。 幕末頃には50m程奥(東)に、90度向きを変えて建っていた。 幕末の元治元年(1864)この門の周辺で長州藩と御所の護衛に当っていた会津、薩摩、桑名藩との間で 激戦が行われた。この戦が「禁門の変(蛤御門の変)」で、門の梁、柱などの鉄砲の弾傷らしき跡が残っている。 この門は、もともとは新在家門といわれて常に閉ざされていた。江戸時代の大火でそれまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえられ、「蛤御門」と呼ばれるようになったといわれている。 この戦で京都の町811町、3万戸の民家が焼失した。 また、福岡久留米藩の真木和泉守に率いられた長州軍は、久坂玄瑞、来島又兵衛、入江九一、寺島忠三郎という人材を失った(京都霊山護国神社に墓がある)。 4つの西門のうち最も南にある門 烏丸通りに面している 幕末頃には50mほど奥(東)に建っていた。 唯一の南門で、丸太町通りに面している。 幕末頃には50mほど奥(北)に建っていた。 文久3年(1863)8月18日公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは三条実美(サネトミ)ら激派の公家7人と尊王攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こした。 堺町御門警備担当の長州藩が御門に集結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ門内に入ることが許されなかった。 政変の結果長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿7人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立した。 |
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