|
二年ばかりありて、また石山にこもりたれば、よもすがら雨ぞいみじくふる。 旅居は雨いとむつかしきもの、ときゝて、蔀をおしあげて見れば、ありあけの月の、谷の底さへ くもりなくすみわたり、雨ときこえつるは、木の根より水のながるゝをと也。 谷川の 流れは雨と きこゆれど ほかよりけなる 在明の月 ( 菅原孝標女「更級日記」) 菅原孝標女(スガワラノタカスエノムスメ)は42歳のころ再び石山寺に参籠した。参籠していたある日、一晩中雨が降っ ていた。旅先での雨はうっとうしいものだと思いながら蔀戸(シトミド)を開けてみると明け方の月が、谷底 まで照らすほど空が澄み切っている。雨だと思っていたのは水の流れの音だった、谷川の音が雨音のよう にきこえるけれども、今見ている有明の月は他のどこよりも美しい、と云うのが冒頭の文意である。 さて、冬の石山寺を巡ってきたが、今までの稿で漏れた石造物、社などを紹介しておく。 経蔵の東側(紫式部供養塔の西側)にあった。 昔からこの岩に座ると安産すると言い伝えられている。 多宝塔の西に置かれている二基の宝篋印塔。 一基は南北朝時代のものと推定されおり重文と云うことだが、どちらか良く分らなかった。 宝篋印塔は中国の呉越王銭弘叔が955年金剛製の塔を作り、内部に宝篋印陀羅尼を納めて諸国に配ったのが始まりで後に日本に入ってきた。上から相輪、笠、塔身、基礎からなる。 石山寺内に、幾つか宝篋印塔が置かれていた。 本堂の北の石段を上り、多宝塔に向う途中にあった。 平安時代の作 目隠ししてこの石を完全に抱けば諸願成就と云う。 大きすぎて無理だった。 鬱蒼とした杉林の中に、龍穴の池の中央の島に八大龍王を祀る社があった。 約千年前、名僧歴海和尚がこの石に座り、八大龍王等を供養したところ、諸龍王が喜び終生和尚を敬い守護したという。 龍穴の池の西に菖蒲池と甘露の瀧を中心とする庭園「無憂園」が作られていた。 今は人気のない、物寂しいだけの場所だった。 東大門の外、南側の茶屋の前に立っている。 弘法大師が弘仁2年(811)42歳の厄年、3ヶ月間石山寺に修行した。大師ゆかりの松なので三鈷の松と伝承された。と説明があった。 しかし、大師といかなる所縁があったのか?、この松は何代目なのか? 全く分らず。 石山寺前、南駐車場前の植え込みの中に建っていた。 石山の 石にたばしる 霰かな と彫られている。 この句は元禄3年(1690)の冬の日に作られた。 石山寺の名の由来でもある幾重にもなった巨大な硅灰石の上を白く固いアラレが激しく降り注いでたちまちあたりに飛び散る様を詠んでいる。 石山寺前、南駐車場前の植え込みの中に建っていた。 昭和15年(1940)発見された縄文時代早期の貝塚 |
全体表示
[ リスト ]


