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船で市川へ出るつもりだから、十七日の朝 小雨降るのに一切の荷物をカバン一個につめ込み 民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。 村の者の荷船に便乗するわけで もう船は来ている。僕(主人公の政夫)は民さんそれじゃ・・・と言う つもりでも咽がつまって声が出ない。民子は僕に包みを渡してからは、自分の手のやりばに困って 胸を撫でたり襟を撫でたりして、下ばかり向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、 体を脇へそむけている。民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑えきれなかった。 民子は今日を別れと思ってか髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧している。 煤色と紺の細かい弁慶縞で羽織も長着も同じい米沢紬に品のよい友禅縮緬の帯を締めていた。 襷を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。(伊藤左千夫「野菊の墓」) 柴又帝釈天から東に5分ほど歩くと、江戸川の堤防に出る。堤防を上ると川面を吹き抜ける爽やかな風と いいたいが少し寒い。 それを越えると江戸川河川敷となっていて、柴又公園として整備されている。河川敷の先にに小説や歌謡 曲で馴染みの矢切の渡しがあった。 矢切の渡しは、元和2年(1916)江戸幕府が設けた利根川水系河川15箇所の渡しの一つで、対岸が千葉県松 戸市だ。現在は都内唯一の渡しとして、観光用として存在しているようだ。 と云うのも、冬期(3月12日まで)は土、日及び庚申の日のみの運行で、 が訪れた時は平日の為休航で、渡し場にはロープが張ってあった。 は、伊藤左千夫の「野菊の墓」(明治39年:1906「ホトトギス」に発表)で、2度と会うことのない恋人たち(政夫と民子)が分かれていった悲しみの舞台として知っていた。 だが、こうして矢切の渡しに来てみて初めて気が付いた。 「野菊の墓の舞台」は「矢切の渡し」といっても、葛飾柴又側でなく、対岸の松戸側であると。 「僕(民夫)の家というのは松戸から二里ばかり下って矢切りの渡しを東へ渡り・・・」
(伊藤左千夫「野菊の墓」)
地図をみると、対岸には「野菊のこみち」と称する東に伸びる道あり、1kmほど先には「野菊の墓文学碑」があることになっていた。 遮るものが無い河川敷に吹く風は強くなかったが、余計に寒くなった気がした。 |
関東紀聞
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が訪れた時は平日の為休航で、


