ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

関東紀聞

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念願の葛飾柴又の散策を終え、少し時間があるので浅草による心算で京成に乗ったが、乗り換える駅を乗

り過ごしてしまい、知らない内に上野へ帰ってきてしまった。

やむ終えず上野公園を散策して、帰りの便までの時間を過ごすことにした。

おのぼりさんにとって、上野といえばまず「西郷さん」の銅像だ。

流石に光雲の作と思わせる立派な像だ。西郷隆盛の夫人が「本人に似ていない」と言ったとか。

しかし、それは光雲の所為ではない、光雲に渡された資料の所為だ。

像の前では何やら工事をしており、白色に塗られた鉄柵がされて、最適と思われる場所からの写真は撮れ

なかった。

西郷さんの銅像の近くに彰義隊の墓があった。

一時は敵味方に戦、その後、両者とも賊名を負った者たちが、ここに名をとどめている。

時の流れの面白さを覚えた。

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                              西郷隆盛像
西郷隆盛は明治の3傑の一人。いまさら、その業績を記すことも無いだろう。
明治10年(1877)西南戦争に敗れ、死亡、享年51歳。明治22年(1889)賊名が除かれ、正3位を追贈された。
像は高村光雲の作で、明治30年(1897)竣工。





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                              彰義隊墓
徳川慶喜は大政奉還後、鳥羽伏見の戦に敗れて江戸に戻った。東征軍(官軍)や公家の間では徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、後に
彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として、上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。
彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千手円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付せられた。
正面の小墓石は明治2年(1869)寛叡寺小院の寒松院と護国院の住職が密かに附近の地中に埋納したものだが後に掘り出された。
大墓石は明治14年(1881)12月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。
彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。(傍に立てられていた説明板より)


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                                 案内図

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