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干時嘉永七甲寅年六月十四日子刻頃大地震・・・・・・同十一月四日辰刻大地震・・・・・・・ 翌五日申刻大地震家くずれ出火も有恐敷有様漸く治る頃雷の如くひびき、日暮れ頃海辺一同津浪 安治川は勿論木津川別而はげ敷、山の如き大波立・・・・・・・・ ・・・・・水勢平日の高汐と違う事、今の人能知る所なれども充分心得且溺死追善旁有儘拙文にて 記し置き願わくば心あらん人年々文字よみ安きよう墨を入れたまふべし (大地震両川口津浪記) 去る11日の東日本大震災は大津波により甚大な被害をもたらした。 TVが繰り返し報じた映像は強烈であった。 海面が盛り上がり、堤防から流れ込む海水は滝のようだし、海の船、陸の車、家屋がごっちゃになり、 木屑か木の葉の様に押し流され、陸地に流れ込んだ海水はアメーバーのように広がり市街地を 呑み込んでいった。 まるでハリウッドのパニック映画の1シーンを見ているようだった。 25日現在で死者1万人以上、行方不明者1.7万人以上、と言い、地震・津波により外部・非常用両電源喪失し た福島第一原発からの放射性物質の漏洩は一向に収まらない。 は先人の戒めを確認するためJR大正駅から5分ほどの大正橋東詰に来た。ここは大阪湾河口近くで、木津川、道頓堀川、尻無川が合流する。近くには京セラドーム(大阪ドーム)が見 える。 ここに一基の碑が建っている。 はこれを確認しに来たのだ。この碑は安政2年(1855)7月建立された「安政大津波碑」といわれるもので。 表から見ると「南天阿弥陀佛、南無妙法蓮華経」と大きく彫られ、前には花が供せられ、一見ありふれた 供養碑かと見えるが、側面裏面には冒頭の文字がびっしりと刻まれ、文字には墨が入れられている。 この碑文は「大地震両川口津浪記」と題し、津波の被害体験(恐ろしさと対処)を後世に伝えようとする ものだ。 嘉永7年(1854)6月14日に大地震があった。11月4日に大地震があり翌日に大地震の後大津波が来て大被害 と多くの死者を出した状況が累々語られる。 そして、宝永4年(1767)にも大地震があり、多くの犠牲者を出した。 今回、長い年月でこのときの被害体験が忘れ去られていた。(悔しさが滲んでいる。) 続いて、大地震の後必ず津波が来ると心得、津波に対する注意・対処法が記され、 最後に、津波の勢いは普通の高潮と違う事を十分心得ておくこと。犠牲になった方々の冥福を祈り、 (被害体験を風化させないため)つたない文章であるが記録しておくので心ある人は時々碑文が読みやす いよう墨を入れて欲しい、と締めくくっている。 大地震、大津波は防ぎようも無い。しかし、その危険のある地震国日本に住み続けなければならない。 そこで、どこかで折り合いつけ、何らかの危険を覚悟して生きていかなければならない。 このためにも、被害を最小限になるよう、過去の被害体験、他所の被害体験から学び取り、必要な対策を 講じ、被害体験を風化させることなく後世に伝えておく必要があろう。 海外から、大地震、大津波のニュースがありながら、多くの専門家の口から「想定外」と云う言葉が 多々発せられるのは残念の一言だ。 安政大津波碑(正面) 大地震両川口津波記 現代語文 (碑近くに設置のものより)
嘉永七年(一八五四年)六月十四日午前零時ごろに大きな地震が発生した。 大阪の町の人々は驚き、川のほとりにたたずみ、余震を恐れながら四、五日の間、不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良では死者が数多く出た。 同年十一月四日午前八時ごろ、大地震が発生した。以前から恐れていたので、空き地に小屋を建て、年寄りや子供が多く避難していた。 地震が発生しても水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところへ、翌日の五日午後四時ごろ、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生し、その恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ、雷のような音とともに一斉に津波が押し寄せてきた。 安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀まで約一・四メートルの深さの泥水が流れ込んだ。両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇やとも綱は切れ、川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れ落ちてしまった。さらに、大きな道にまで溢れた水に慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もあった。 道頓堀川に架かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し川をせき止めたため、河口から押し流されてきた船を下敷きにして、その上に乗り上げてしまった。 大黒橋から西の道頓堀川、松ヶ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は流れてきた船によって壊され、その音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった。また、船場や島ノ内まで津波が押し寄せてくると心配した人々が上町方面へ慌てて避難した。 その昔、宝永四年(一七〇七年)十月四日の大地震の時も、小舟に乗って避難したため津波で水死した人も多かったと聞いている。長い年月が過ぎ、これを伝え聞く人はほとんどいなかったため、今また同じように多くの人々が犠牲となってしまった。 今後もこのようなことが起こり得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対してはいけない。また、建物は壊れ、火事になることもある。お金や大事な書類などは大切に保管し、なによりも「火の用心」が肝心である。川につないでいる船は、流れの穏やかなところを選んでつなぎ替え、早めに陸の高いところに運び、津波に備えるべきである。 津波というのは沖から波が来るというだけではなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもあり、海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもある。今回の地震で大和の古市では、池の水があふれ出し、家を数多く押し流したのも、これに似た現象なので、海辺や大きな川や池のそばに住む人は用心が必要である。 津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、十分心得ておきなさい。犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。 安政二年(一八五五年)七月建立 |
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は先人の戒めを確認するためJR大正駅から5分ほどの大正橋東詰に来た。


水深の深い湾、次第に狭くなる湾や入り江の奥部、周囲を海に囲まれた岬の先端などでは、津波(到達高)が高くなる。
湾では減速しながら海岸に接近した先行波に後続波が重なりやすいため。(湾口で波高2 mのものが湾奥で5 m超になった例がある)
潮が引く「引き波」から始まる時も、盛り上がる「押し波」から始まる時もある。これは発生様式によって「海底地形の変化」が異なるためである。浸水後の引き波は、次第に速度を増していき、流速は浸水時よりも早い場合がある。重力による落下が水の勢いを加速させるため。
第1波が一番高いとは限らず、数十時間にわたり数波の来襲がある場合もある。これは反射・屈折・干渉した波や余震で発生した別の津波によって不規則に波が重なることがあるため。
一般的に海岸近くでの津波への警戒・対応として、強弱に関わらず揺れを感じた場合、「できれば内陸深くへ、難しそうなら近くの高台、建物の上層部へ速やかに避難すること」が推奨される。
日頃からの避難の心得として「津波てんでんこ」という標語もある。津波の襲来が目視できる前でも、海岸や河口付近の低地には留まることが
2018/12/16(日) 午前 9:26 [ 地震・雷・火事・津波 ]