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かかりし程に 湊川にて討たれし楠正成が首をば六条河原に懸けられけり・・・・・ ・・・その後尊氏卿、楠が首を召し寄せられて、「朝家私日久しく、相馴れし旧好も便なり。 彼が跡の妻子ども、さこそ今一度空しき皃(カタチ)をも見たく思ふらめ」とて、正成が遺跡(ユイセキ) へぞ送り遣はされける情けの程こそありがたけれ (「太平記」巻第16) 楠木正成は弟・正季(マサスエ)と共に、九州から攻め上る足利尊氏を迎え撃つべく、神戸湊川に出陣したが、 延元元年(1336)5月25日衆寡敵せず敗死する。 尊氏は正成の首を京都 六条河原に晒した後、妻子のもとに送り届けた。 敵将尊氏でさえ正成に対し畏敬の念を持っていたようだ。 正成の首は観心寺に葬られ、現在でもその首塚が境内の奥にあった。 戦前は「忠臣大楠公」として正成があがめられた時故、命日には供養が、国家的行事として大々的に行わ れていたらしいが、今では地元の人たちが中心にしめやかに行われていると聞く。 近くには正成の師・滝覚坊の墓、忠魂の碑が建っていた。 また、山手には後村上天皇桧尾陵(ヒノオリョウ)があり、正成の首塚近くに後村上天皇の母・阿野廉子(アノレンシ)の 墓がひっそりと木々の中にあった。 楠木正成首塚 明治以降相当整備されたようだ。20日〜26日の日曜に楠公祭が催される。 正成の墓、摂州湊川にあるは軀墳なり。ここ(観心寺)に在るは首塚なりという (貝原益軒「南遊紀行」) 楠木正成の師、和田氏の子孫 正成首塚に向かって右手に立っている。 明治維新の前夜の文久3年(1863)8月 元侍従の中山忠光を擁する天誅組が 大和五條に討ち入る前に立ち寄り、 正成の墓前で戦勝を祈願した。 後村上天皇桧尾陵 御陵入口から約230段の石段を上っていった山腹に陵が築かれていた。 後村上天皇は後醍醐天皇の皇子、幼名・義良(ノリヨシ)親王、延元4年(1339)12歳で第97代天皇として践祚、 正平23年(1368)住吉大社で崩御 後醍醐天皇の后妃で 後村上天皇の母・阿野廉子(アノレンシ)の墓 |
摂河泉風土記
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