ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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昨日気象庁は、近畿地方では、四国、中国、東海地方と共に梅雨明けしたと見られると「梅雨明け宣言」

出したが、今朝は雲が多い空だ。

神戸電鉄粟生線「三木三の丸」で下車し、徒歩数分の所に、三木城祉があった。

戦国時代の三木城は上の丸公園となっている本丸、図書館や美術館のある二の丸、新城、市役所周辺の鷹

ノ尾城、雲龍寺周辺が城域と考えられている。

上の丸公園には城跡としてかんかん井戸が残るだけで、後は近年建てられた別所長治公像とか、長治公辞

世の碑や一族辞世の碑がたつのみであった。

三木城は室町時代の15世紀後半東播磨守護代となった別所則治によって明応年間(1492〜1501)に築かれ、

以後別所氏の居城となった。

天文7,8年(1538,39)山陰の戦国大名尼子晴久に、天文23年(1544)三好長逸や三田の有馬氏に攻められた

が落城を免れている。

5代城主別所長治の時、天正6年(1578)天下統一を目指す織田信長の家臣羽柴秀吉の軍に包囲された。

秀吉は三木城を取り囲むように、30あまりの付城を築き兵糧攻めにした。

籠城は2年近くに及び、天正8年(1580)1月17日城主一族は城兵と領民を救うため、自刃して三木城を開城

した。

この戦は「三木合戦」と言われ、籠城の悲惨さから「三木の干殺し」として有名である。

その悲惨な様は「播州太平記」や「武功夜話」等に記されている(本稿末に記載)。

この後は、秀吉の家臣・杉原氏、中川氏などが在城した。

慶長5年(1600)の関原合戦後は、池田輝政が姫路城の城主となり、その支城となった。

元和2年(1616)小笠原忠真を領主とする明石藩に編入されたが、元和3年(1617)幕府の一国一城令により

廃城となった。この時の資材は明石城の建築部材になったと言われている。

イメージ 1 上の丸公園図(三木城本丸跡)


イメージ 2 別所長治公像
三木ライオンズクラブが結成40周年記念として建立。


イメージ 3 別所長治公辞世の碑
昭和17年(1942)建立
今はただ うらみもあらじ 諸人の
 いのちかはる 我が身と思へど
長治が自刃した時は23歳


イメージ 4 別所一族辞世の碑


イメージ 5 かんかん井戸
本丸跡に残る唯一の井戸
石を投げ込むと「カンカン」と音がすることからこう呼ばれている。
柵と網がしてあり近づけなかった。
説明板によれば、口径3.6m 深さ約25m


イメージ 6 三木駅方向の眺望


イメージ 7 イメージ 8
                               稲荷神社
公園の一角に稲荷神社があった。木々で薄暗いその裏手には塗料のはげた鉄製の鳥居と石造碑が沢山建っていた。


イメージ 9 三木城復元図

三木の干殺し
黒部亨:「戦国の武将たち」(神戸新聞総合出版センター)


●城内は飢人ばかりにて 堀の影、或は楯のはざまに打ち臥して夕の露をなめ、壁をこぼち、松柏の皮を喰ひ、飢を凌ぎ悲しみの涙目にさえぎり哀れなりける有様なり。
かかりける所に、鬨の声を揚げ狼煙をを揚げ攻寄けれども、かかる体たらくなれば鎧を着る力もなし
                                    (「播州太平記」)

●城中の士卒幽鬼の様体に候なり。
木の皮を食し、ために城中に青草なし。
顔色を窺うに肉落ち声衰え、問うとも答えるところなし。
身に襤褸(ランル ぼろぼろになった衣類)をまとい、具足袖はちぎれ、草摺は破れて、あるは胴のみ着し杖をたよりに蹌踉(ソウロウ 足元がよろよろしている様)、或いは困臥する者あり。これも武者の果てなるなり。
意地なく了簡もなく、三々五々連れたち落ち行き候なし。
あわれいう事なし。                           (「武功夜話」)

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