ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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延々と続く参道を上って行くと、両脇にはかって城塞化していた戦国時代の石垣の跡や僧房の跡を目にし

た。

やがて、深い木立の中に仁王門が姿を表した。

百済寺(ヒャクサイジ)は山号を釈迦山、近江最古の寺である。

約1400年昔の推古14年(606)高句麗僧・恵慈の案内でこの地を訪れた聖徳太子は、瑞光を発する立木を見つ

けた。

その立木に十一面観音像を刻み、百済の「龍雲寺」を模して御堂を建てた。

これが百済寺起こりとされる。

開闢(カイビャク)法要には恵慈を咒願とし、百済僧・道欽や暦を伝えた観勒も永く住したと伝えられている。

その後、天台寺院となり、鎌倉時代には「天台別院」と称され、1000余坊を擁し、1300人が居住する大寺

院となった。

戦国時代には入っても、自火、兵火により幾度か諸堂焼失の危難にあったが、なお寺勢を保っていた。

しかし、天正元年(1573)百済寺が、鯰江(ナマズエ)城に入った六角義賢(ヨシカタ)・義治(ヨシハル)に誼を通じたた

め、織田信長は焼き討ちし、全山灰燼に帰した。

江戸時代初期亮算(リョウサン 天海大僧正の高弟)が入山して再興が始まり、彦根藩主井伊家によって本堂、

仁王門、赤門などが再建された。。


イメージ 1仁王門
慶安3年(1650)再建 大正期に建て直し。
2つの巨大な草鞋吊り下げられ
仁王像が互いに向き合うように安置されている。



イメージ 2大草履
仁王門の草鞋は仁王像の大きさに応じて50cm程度であった。
江戸時代の中頃から仁王門を通過する参拝客が健脚、長寿の願を掛けるようになった。
「草鞋が大きいほど御利益も大きい」ということで、どんどん大型になって、今では3mほどになった。
地元のお年寄りの方々が約十年毎に新調しているとのこと。



イメージ 3 イメージ 4
                         仁王像


イメージ 5本堂
慶安3年(1650)再建 桧皮葺 重文
石垣の上に建ち、西明寺や金剛輪寺と同じように外陣、内陣、後陣からなる。
本尊十一面観音(聖徳太子が瑞光を放つ立木から彫り出したと伝えられるものだが、それが根の付いた木であったので「植木の観音」ともいわれる)は秘仏で須弥壇中央の厨子に安置されている。
本尊に向かって左側に聖観音菩薩坐像
          右側に如意輪観音半跏像
    が安置されている。
如意輪観音半跏像,聖徳太子孝養像などが公開されていた。
近江西国三十三観音霊場第16番札所
この山は わけてぞ仰ぐ 後の世を たのむ仏の 御名とおもへば


イメージ 7本堂外陣
紅白の閻魔像が左右に安置されていた。
写真には写っていないが向かって右手奥に賓頭盧尊者がいらっしゃった。



イメージ 6鐘楼
本堂の西北に建っていた。
鐘の音の長さと美しさで知られる。
自由に撞くことが出来たので、
「東北地方の一刻も早い復興」を願って、一つ撞いてきた。

百済寺御伽藍放火の事
四月七日信長公、御帰陣。其の日は守山に御陣取り 是より直ちに百済寺へ御出で、二、三日
御逗留あって、鯰江の城に佐々木右衛門督楯(義治)籠るを、攻め衆人数、佐久間右衛門尉、
蒲生右衛門大輔、丹羽五郎左衛門尉、柴田修理亮に仰せ付けられ、四方より取り詰め、
付け城させられ候。
近年 鯰江の城、百済寺より持ち続け、一揆と同意たる由、聞こし召し及ばる。
四月十一日、百済寺堂塔、伽藍、坊舎、仏閣悉く灰燼となる。哀れなる様、目も当てられず。
其の日は岐阜に至りて御馬を納められ候ひき。
                              ( 太田牛一「信長公記」)

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